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アニメ映画に描かれる地理的想像力 —新海誠監督作『ほしのこえ』から『星を追う子ども』まで—

2017年09月07日 18:21

キーワード:地理的想像力,新海誠,風景,子ども,アニメ聖地巡礼


Ⅰ はじめに

 ゼロ年代のオタク文化批評では、宇野常寛による『ゼロ年代の想像力』の刊行以降、「想像力」という語が頻繁に用いられている(東編,2009;限界小説研究会編,2009;前島,2010)。ここでいわれている「想像力」imaginationsとは、いうまでもなく、作品を生み出す創造的想像力creative imaginationsのことである。本稿の目的は、こうした創造的想像力の一部としての地理的想像力geographical imaginationsを、アニメーション映画の中から見出し、これを理解することにある。
 地理的想像力とは「場所や空間の意味、地表面上の生活の営みの性質における風景や自然への感受性」(Gregory,2009:282)と英語圏では解釈されており、人文地理学の用語の一つとして欧米の地理学において50年以上も議論が続けられてきた。そして、2011年の傾向の一つとして、英国で地理的想像力の議論を続けてきたDanielsが、RGS-IBG(王立地理学協会・英国地理学研究所)の講座のテーマとして選び、またこれまでの地理的想像力を回顧するエッセイを Transactions of the Institute of British Geographers 誌に寄せている。その上で、地理的想像力を、これまでの人文地理学の用語の範囲としてだけでなく、隣接分野を横断して一つの学問分野として取り組むことを提案している。このような地理的想像力への関心の背景には、一つは、地理学の課題や方法論が地形や風景の解釈、地図の作成といった想像力に基づくものが多いことである(Daniels,2011:182)。もう一つはその定義があいまいなものとなっているという点である。Giesekingによれば、この定義には、Harvey、Gregory、そして文字通りの意味としての「人びとが場所や空間を想像して描く能力」(Gieseking,2007)の三つの流れがあり、この用語を用いる地理学者たちはこれら三つの定義に依拠している。
 そのような地理的想像力の描写や蓄積は私たちの過去が示している。かつての大航海時代に「まだ見ぬ世界」を求めて旅立った冒険者や探検者が持っていたそのイメージであり、そうした地理的想像力は航海日誌などの文献や、世界地図のような絵画などによって、具現化されてきた。二世紀の地理学者プトレマイオスが描いた世界図(図1)のように、地理学者は地理的想像力の蓄積に関与してきた。時代を遡れば、文献や絵画だけでなく、神話や昔話などの語りからも地理的想像力を見出すことができよう。それはときとして政治性や宗教性を帯びながら、同時代の人びとに共通する世界観—社会—を表象してきた。

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図1 プトレマイオスの世界図(1)


 本稿が分析の対象とするのは自主制作アニメ『ほしのこえ』(2002)で当時の日本のアニメ界に「オルタナティヴ・アニメ」という新しい風を送り込んだ新海誠監督の作品群、特に、2011年5月に劇場公開された最新作『星を追う子ども』(以下『星追い』)である(2)。彼の代表作である『雲のむこう、約束の場所』(2004)は第59回毎日映画コンクールのアニメーション賞を、『秒速5センチメートル』(2007)はイタリアのフューチャーフィルム映画祭のランチア・プラチナグランプリを受賞しており、国内外で高い評価を得ている。『星追い』もまた、公開前後を中心に、彼の四年ぶりの新作映画ということでインターネット上、とりわけtwitterで話題となった(3)。ジュブナイル・ファンタジーと銘打たれたそれは、主人公アスナが、別世界アガルタからやってきた少年シュンとの出会いを契機に、地下世界を冒険するという物語である。
 本稿ではまず英語圏や日本での地理的想像力への言及を振り返り、併せて文化地理学におけるアニメーション研究についても触れるることで分析の枠組みを組み立てる。その上で、視聴者に地理的想像力を想起させる三つの次元を挙げ、これまでの新海の作品群と、『星追い』のストーリーを追いつつ、そこに描かれる地理的想像力を論じていく。
Ⅱ 地理的想像力の理論化に向けて

(1)地理的想像力とは
 地理的想像力という語を最初に地理学界に持ち込んだのは英国の歴史地理学者Princeである。彼はこれを人びとの場所や風景への反応であり、文化や自然を超越した創造的芸術 creative art を表すものとしている。彼は、当時、空間科学として再編成されていた地理学を批判することで、地理学的想像力の枠組みを形成しようと試みていた(Prince,1962;Gregory,2009:282)。彼のこのようなアプローチは、後に発表された歴史地理学の三領域 real world,imagined world,abstrust world を提示した著名な論文で明白になった(Prince,1971)。すなわち「想像の世界 imagined world 」の研究は、絵画や文学作品の中の場所のイメージや、景観のシンボリズムの分析を通して、私たちの過去の地理を明らかにするという方法である。このような手法は1970年代後半に始まった人文主義地理学の運動で成果が蓄積されていく。
 Prince以降の地理的想像力の議論は、社会地理学者のHarveyが中心に牽引していった。彼は社会学者のMillsが提案した社会学的想像力 sociological imagination—個々人の生活史を、特定の時代の大きな社会構造になぞらえるために用いる概念的方法—と、地理的想像力とを比較し、これらを関連づけようとしていた。彼の地理的想像力はPrinceとは異なる。「自己の経歴において、空間と場所が果たしてきた役割を認識でき、それを自分の周囲に見られる諸空間に関係づけることができ、個人間および組織間との取り引きがそれを隔てている空間によってどのような影響を受けているかを認識する力」(Harvey,1973=1980:24-25)と、当時の社会理論の影響を受けた社会地理学の文脈で主張していた。また、Gregoryも、それを「社会集団の特徴を述べる空間化した文化的・歴史的な知識」と再定義している(Gregory,1994)。
 このような社会理論的、空間論的な文脈で論じられた地理的想像力への批判の一つとして、フェミニスト地理学者のRoseがこれを、男性的な定義—「社会科学的男性性」「審美的男性性」—の問題があると指摘している(Rose,1993=2001)。彼女は、男性から見た単一的なイメージの他者の地理的想像力を探究するのではなく、様々な立場にある、多様な他者を認めるような差異や権力に配慮したそれを探究することを提案しているのである。
 RoseやGregoryらの議論以来、人文地理学において地理的想像力は熱心に言及されることもなかったが、最近の地理的想像力へのアプローチとして、1930年代のイタリアにおけるファシスト体制による宣伝飛行のイデオロギー的な表現と視覚的な地理的想像力とを関連づける研究(Caprotti,2008)、タイ南部の観光地の言説から権力関係やアイデンティティ、場所の意味を読みとる研究(2008,Malam)、英国の芸術家の作品から都市空間の地理的想像力を分析したもの(Hawkinsa,2010)といった豊富な事例研究や、一般的な地理とアカデミックな地理学の接続を図り、公的な知識としての地理学の役割を再喚起するよう求めている研究(Bonnett,2003)や、英語の地理雑誌から一般的な地理的想像力とアカデミックな地理(学)的想像力(4)の相違や問題を見出す研究(Johnston,2009)などの地理的想像力の概念に迫った研究がある。
 日本では geographical imaginationを「地理的想像力」あるいは「地理学的想像力」と訳して用いられてきたが、この二つの概念の併用の問題は、それらは地理学のみに独占されるものではないという意味で、「地理的想像力」が適切であるとされている(竹内,2003)。これについては欧米でも同様に解釈されている(Gregory,2009:282)。ただし日本における地理的想像力への言及は、Harveyなどの英語圏の人文地理学者の成果の輸入を通して用いられる程度であって、地理学者によって単なる語彙でしかなく、自明的に用いられており、英語圏の人文地理学界のように概念そのものを議論しているものはほとんどない。しかしながら、地理学あるいは隣接諸科学では地理的想像力と地図(認知地図・メンタルマップを含む)の思想とを結びつけて論じるもの、その応用としての地理教育の文脈で用いられているようである。最近は地図の社会学的アプローチからこれを言及する研究がある。松岡は個人と社会とをつなぐメディアとしての地図の地理的想像力を、地理学での地理的想像力について触れつつ、グローバル時代において、地域社会で作成される過去や未来の地図の、ローカルな地理的想像力の可能性と、さらに、テレビやインターネットなどの電子メディア、GPSや三次元・四次元的な地図などの高度技術がもたらす断片的な地理的想像力の危機から論じている(松岡,2008)。たしかに地理的想像力は地理学が独占するものではないが、日本の人文地理学において地理的想像力の概念への言及は、欧米の人文地理学のそれよりも積極性を欠いているように見てとれる。地理的想像力の概念に迫り、これを一つの学問体系として理論化していくことに、冒頭で挙げたDanielsの提案の意義がある。そこで本稿は『星追い』に描かれる地理的想像力に関するいくつかの視点を提示しながら、これを理解していく。

(2)風景を読む
 文化地理学における風景を読み取るという作業は古くからあるパースペクティヴだが、かつてのその関心は、農村や先住民の居住地にあった。これに対して、1980年代の「新しい文化地理学」は、Barthesの記号学の影響を受けており、都市の風景に包含されている政治的権力関係やイデオロギーを読み取ろうとする。それを先駆的に行ったDuncanは、中世スリランカの王都や近現代カナダの市街地、オーストラリア先住民の村落空間、SaidのOrientalism(Said,1978=1986)に描かれた風景などを分析している(Duncan,1988;1990)。彼の関心はフィールドワークによって観察されたものから、文章や図像に描かれた風景にまで及んでいる。
 文化地理学が映画などの映像に描かれる風景を分析の対象とするのも、Duncanらの研究の延長上にあるといえる(文化地理学における映画研究の歴史は佐々木,2010を参照)。映像に描かれた場所のイメージの分析は、受け手側の研究にみられ、そのなかの場所や風景は、偶然に映し出されたものではなく、記号として意味を生成している側面がある。アニメのなかの場所や風景は制作者側の意図のもとに描き出されているものであるため記号の意味が強調される(佐々木,2010:68)。
 たとえば、『千と千尋の神隠し』(2001)を分析した佐々木は、冒頭の家族の引っ越しシーンに表れる風景から伝統的な民俗社会のそれと、ニュータウンの没場所性placelesnessという記号の対比を通して、現代社会の諸問題の再考を視聴者に促しているという分析結果を提示している(佐々木,2009:118-123)。また、押井守監督の著名な作品『Ghost in the Shell 攻殻機動隊』(1995)とその続編『イノセンス』(2004)に描かれた都市風景と、人間と機械の中間にあたるサイボーグの登場人物の心理描写との関係を、哲学者スピノザの議論を援用し、過去/未来、(自然を含む)風景/人間というような二元論的な視点を越えようと試みる研究もある(Curti,2008)。人間と風景の二元論の克服が形而上学的な問題であった地理学において、このような議論が斬新であるのは、その二元論の克服を、風景に積極的に求めているからである。それは、多くのアニメーション映画でとられる、キャラクターを商品として売り出して、人物と風景とを切り離したものとは異なる描写でもある。
 新海誠監督作品群に関する批評や論文では、そのほとんどが風景について論じている。それは、まるで一枚の風景画のような映像の美しさもさることながら、登場人物の心情と風景の一体化が彼の作品の「メロドラマ」(加藤,2009:121)性を視聴者に提供し、共感を呼んでいるためである(5)。文化地理学における映画研究を見ると、その関心の中心は風景にある。人間が作り出した風景から、Duncanは政治性を、佐々木は民俗社会性を、Curtiは人物と風景の一元論的視点を提示している。本稿はアニメーション映画に描かれる風景に関心を寄せる上で、これらの先行研究とは異なる視点を見出さなければならない。筆者は、風景描写などから制作者、視聴者の地理的想像力を見出し、これを読解することを試みるのである。

(3)地理的想像力を読む
 以上のように、地理的想像力への言及とアニメーション研究について、やや羅列的ではあるが確認してきた。ここで『星追い』の分析に入る前に本稿での地理的想像力を定義しておく必要がある。この作品では私たちの地理的想像力を想起させる三つの次元を見出すことができる。
 第一に、距離の次元である。ここでいう距離は、ある人物や物との間の物理的な距離だけでなく、ある時間とある時間との時間的な距離も含まれる。後述するように、新海の作品のほとんどは静的・動的に物理的・時間的距離を描写している。そのような距離は、ある場所へのイメージを描写する地理的想像力となっているのである。
 第二に、人びとの憧れの次元である。ある場所へのイメージは、物理的・時間的距離だけでなく、ときには人物の「まだ見ぬ世界」への憧れとして描かれる。特に『星追い』は主人公アスナが地下世界からやってきたシュンというと出会い、地下世界を冒険するというストーリーであり、そのような冒険劇は人物たちの目的地へのイメージや、彼らの移動を色濃く描写する。また、アスナが旅立つ契機となる題材が、地下世界の存在を知らせる神話であるという点も重要である。この神話は、劇中の「アガルタ」という架空のものだけでなく、現実の世界各地で残されている地下世界の神話もベースにしている。アガルタの神話は、人物たちの「まだ見ぬ世界」への好奇心と想像力、そして冒険の目的意識をかき立てているのである。ジュブナイル・ファンタジーと銘打たれている『星追い』では、特に子どもの地理的想像力についても考察する余地があろう。さらには、アガルタという、映画上の架空の地下世界を舞台に設定した制作者の地理的想像力も想起される。これは、なぜ新海が地下世界を舞台にしたかという疑問に対する答えの一つを提示できる。
 第三に、地理的想像力の創出と実践の次元である。これは新海の作品だけではないが、アニメに描かれている風景が実存する風景であったり、実存する風景をモティーフにしているものが多い。なぜ制作者がその場所を舞台としているのか、これもまた地理的想像力を考える過程で明らかにしなければならない。そのような実存する風景は、しばしばファンによる「アニメ聖地巡礼」(岡本,2010:92)が行われる。また、アニメの風景はエンディングクレジットなど制作者側からあらかじめ発表される場合もあるが、ファンによる場所の特定の作業も行われているようである。彼らはアニメのシーンを想像しながら舞台となった場所を巡っている。SF要素の濃かった『ほしのこえ』『雲のむこう、約束の場所』とは異なり、実存する風景を色濃く出している『秒速5センチメートル』ではファンによる「アニメ聖地巡礼」が行われているのである(6)。『星追い』前半の舞台となった山間集落について、新海は明確な場所はないとしているが、ロケハンに用いたのは長野県の風景であると言及している(7)。このように、制作者側がアニメの舞台となった場所を直接的・間接的に提示するという地理的想像力の創出と、視聴者がその場所を発見したりそこを巡るという地理的想像力の実践が行われているのである。
 新海作品の分析に限っていえば、地理的想像力の定義は文字通りの、子どもから大人までの、あるいは制作者から視聴者までのあらゆる人びとの、実存する場所もしくは架空の場所を想像する能力といえる。そして、その能力を想起させる距離、憧れ、創出と実践の三つの次元を含んでいるのである。このような地理的想像力の読解は、単なる風景の読解だけでなく、人文地理学における人間と自然との問題に迫ることにもなるだろう。次に、この三つの次元を、新海作品のシーンを参照しながら確認していく。


Ⅲ 地理的想像力を想起させる三つの次元

(1)距離を演出する地理的想像力
 まず、新海作品に描かれている距離について焦点を当てる。これは以下で扱う彼の作品すべてに共通する重要な要素である。
 単純な物理的距離は、新海の初期作品『ほしのこえ』の物語の構成に最もわかりやすく描かれている。ヒロイン長峰美加子はその才能から、地球を侵略する異星人と戦うために、宇宙へ旅立つことになる。ここでは地球と、美加子のいる宇宙船との物理的な距離が直接的に描写されている。さらにその距離が強調されているのが、彼女が思いを寄せているクラスメイトの少年とのメールのやりとりだ。宇宙船からメールを送信するが、地球との距離が遠くなるたびに、その送受信に時差が生じてくる。この時差がいわゆるウラシマ現象によって数年単位にまで広がっていく。彼女と少年との物理的距離、時間的距離が描かれているのである。
 また、彼女のセリフからも距離と地理的想像力の関連を見出すことができる。物語の冒頭、建物の非常階段を降り、メールを打ちながら、彼女はこう語る(図2)。

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図2 美加子と都市の風景(8)


「世界、っていう言葉がある。私は中学の頃まで、世界っていうのはケイタイの電波が届く場所なんだって漠然と思っていた。でも、どうしてだろう。私のケイタイはだれにも届かない。」



 新海誠が次世代のアニメーション作家として最も注目された作品である『雲のむこう、約束の場所』でも、距離の次元の地理的想像力を見出すことができる。この作品は、第二次世界大戦後の日本を舞台にしているが、津軽海峡を挟んで北側の「蝦夷」をユニオンが、南側をアメリカがそれぞれ分割統治するという設定がなされている。その津軽海峡の向こうにそびえる一本の塔が作中の風景としてしばしば登場している。主人公の藤沢浩紀はこの塔を見上げており(図3)、いつかそこへたどり着くことを夢見ているのである。この塔は彼が中学時代を過ごした青森からも、物語の後半の舞台である東京からも見ることができ(図4)、その風景の描写から地理的想像力を想起する物理的距離を描いているといえる。

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図3 ユニオンの塔を見上げる浩紀(9)


 この作品の特徴は、いくつかの時系列の隔たりが組み込まれていることである。物語の冒頭は、この巨大な塔をめぐる一連の事件を終えた浩紀が、かつて飛行機を組み立てていた廃駅を訪れている最中に、中学時代のできごとを回想する形でスタートしている。次に中学時代の、この塔と同級生沢渡佐由理への思いを募らせる日々を描き、さらに、彼女の消失によって無気力になった三年後の浩紀の生活とそこから物語終盤に向けた転機が描かれている。このように、本作品は現在から過去という時間的距離が描かれている。本作品は時系列の分割だけではなく、Walkerが指摘しているように、浩紀と友人の拓也、佐由理の集合的なストーリーと、それぞれのストーリーという隔たり、国家の南北の隔たり、それによって生じた家族の隔たり、青森と東京という都市と田舎の隔たりなど、作品全体を通したある種の主題として描かれているのが特徴的である(Walker,2009:5)。

ピクチャ 1
図4 東京から見るユニオンの塔(10)


 全三話の短編アニメーションとして制作された『秒速5センチメートル』でも、主人公とヒロインの地理的想像力を想起させる物理的距離が描かれている。第一話「桜花抄」では、主人公の遠藤隆貴が、転校していった少女に会いに行くというストーリーで展開する。そのなかでリアルに描かれるのが駅や電車内外の風景である。図4のように、切符売り場にある運賃表や、電車内の停車駅図を見上げて目的地を確認する隆貴の姿は、一人でその場所へ行くことに対する不安だけでなく、ヒロインの待つ場所との物理的距離と、それに伴う彼の心情を忠実に描き出しているのだ。隆貴は次のように語る。

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図5 運賃表を見る隆貴(11)


「新宿駅に独りで来たのは初めてで、これから乗る路線も、僕には全て初めてだった。ドキドキしていた。これから僕は、明里に会うんだ。」



 そしてこのような物理的距離を象徴しているのが電車による移動である。ヒロインに会いに行く途中、大雪によって電車が幾度も遅延してしまい、次第に焦りを募らせていく隆貴の心情を表すかのように、大雪の中を黙々と走る電車のコマが描かれている(図6)。

ピクチャ 2
図6 大雪のなかを走る電車(12)


 新海作品の最大の特徴であり、最も評価されているのが美麗な背景画であるが、図3、4、6にあるように、そのほとんどがロングショット—「遠く」の風景—として描かれていることである。特に、空や雲の風景—「クラウドスケイプ」(加藤,2008:111)—は、人間が生活する大地との物理的距離を忠実に表しており、そのような距離が、時には人物の心情を視聴者に突き付けてくるのである。
 こうした物理的距離とは別に、『雲のむこう、約束の場所』や『秒速5センチメートル』の結末にも別の距離が描かれている。それが、獲得と喪失の間の距離である。前者は、病気で眠ってしまった佐由理を目覚めさせるために浩紀がユニオンの塔へ向かい、結果として彼女は目覚めるが、長い眠りの後遺症から浩紀への思いを忘れてしまっているという彼女の獲得と喪失が、後者は、第一話で結ばれたかに見えた隆貴と少女だが、第三話で青年となった隆貴は彼女の姿を追い求めていてたが、彼女はすでに別の男性と婚約しており、またこの二人が再会することなく終わるという獲得と喪失が結末として描かれた。両作品の結末が描いている獲得と喪失は、主人公とヒロインとの関係だけでなく、二人の場所と場所の間の、決して交わることのない物理的距離を新たに生じさせた。ヒロインの場所を想像する主人公の地理的想像力もまた、獲得と喪失を経ている。
 『星追い』でも同様のことが指摘できる。地上世界からアガルタ、アガルタの入り口からアガルタの奥地—死者と再会できる場所—へと移動する設定もまた、ある場所と場所との物理的距離を描いている。そして、アスナはアガルタから来たという少年シュンを突然失い、それは生死の間の距離を明確に描いている。また、アスナの回想として、彼女の母親とともに父親の墓参りをするシーンがある。この場面でも生死の距離を描いているが、当時のアスナは、父親の喪失をよく理解している様子ではなかった。彼女は、突然のシュンの死も理解できておらず、物語全編を通して、喪失を理解し、この距離を縮めていくように描かれているのだ。
 このように、人物と風景の間、男(主人公)と女(ヒロイン)の間、獲得と喪失の間、生と死の間の距離を、人物の移動を通して描かれているのが新海作品の特徴である。しかしこのことは、それらの二項対立を意味するのではない。むしろ距離という一つの線で結ばれている。物理的・時間的に描かれるこの距離は、ある場所への地理的想像力を演出し、これを視聴者に想起させる効果があるといえる。

(2)「まだ見ぬ世界」への憧れ
 次に確認するのが、「まだ見ぬ世界」への憧れの次元で、この次元もほとんどの新海作品で見られる。それは、人物の語りからだけでなく、制作者による物語の舞台設定からもうかがうことができる。前節で参照した、『雲のむこう、約束の場所』の浩紀がユニオンの塔を見上げている場面の彼のモノローグは、まさにこれを直接的に表現している。

「憧れのひとつは、同級生の沢渡佐由里で……そしてもうひとつは、津軽海峡を挟んだ国境のむこうにそびえる、あの巨大な塔。いつだって、僕はあの塔を見上げていた。僕にとって大切なものが、あの場所には待っている気がした。とにかく、気持ちが焦がれた。」



 『星追い』における地下世界アガルタへの憧れは、主人公アスナよりも、死んでしまった妻との再会を願うモリサキの欲望に明確に描写されている。

「アガルタには失われた神々の英知が未だ残され、あらゆる願いが叶う場所があるという。」


「私はただ、妻を生き返らせたいだけだ。」



 他方で、制作者や視聴者の地理的想像力を想起させる舞台設定の役割も見られる。『雲のむこう、約束の場所』は、南北に分割統治された日本という設定、『星追い』はアガルタという地下世界の舞台設定である。特に後者は、アガルタをはじめとする地下世界の神話が、架空の場所への憧れを表しているといえる。アガルタの風景や用語についても、たとえば神々が乗る作中の飛行船「シャクナ・ヴィマーナ」(図7)はインドの古典に登場する飛行船「ヴィマナ」をもとにしているなど、世界で見られる古代文明の神話を取り入れていると新海は述べる(パルプライド,2011a:22)。

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図7 シャクナ・ヴィマーマ(14)


 また、新海が本作品で地下世界を取り上げたことについて、地上世界のベースを1970年代と設定した上で(13)、その時代まで、ほとんどの日本人が地下世界(地球空洞説)の存在を信じていたと考えたからであると言及している(パルプライドa,2011:22)。新海も言うように、当時の日本人は1964年の海外渡航解禁によってようやく世界旅行をすることが可能となるまでは遠く離れた国の情報を得ることができず、世界を知ることができなかった。現代においては、テレビや新聞、インターネットなどによってある程度他国の情報を得ることが可能となっている。この二つの時代の対比に、地理的想像力を読み取ることができよう。当時の日本人が地下世界を信じることができたのは、他国や地球そのものへの想像力を働かせていたからだという一面が指摘できる。しかし情報通信技術の発達は、松岡も言うように、地理的想像力の危機でもある(松岡,2008:108-110)。新海がこの作品を通して私たちに「まだ見ぬ世界」を提示したのは、彼が情報の海に生きる私たちの地理的想像力を危惧していると言えるだろう。
 『星追い』の憧れの次元での地理的想像力でもう一つ指摘しておかなければならないのが、子どもの地理的想像力である。本作品ははジュブナイル・ファンタジーと宣伝されている。このことは、1970年代の子どもたちもまた、世界を知る方法をほとんど持っておらず、世界を知ることができなかったことも意味している。そのようなことから、子どもと大人の地理的想像力にも差異が表れてくるであろう。現代では、学校の授業や情報通信技術の発達によってここにながら遠く離れた国の情報を得ることができるが、子どもの場合、「まだ見ぬ世界」への憧れはときに好奇心となって彼らの地理的想像力を想起しているといえる。
 そして新海がこの物語を構成するにあたって参照したというのが、彼が子ども時代に読んだという乙骨淑子の児童文学『ピラミッド帽子よ、さようなら』である(パルプライド,2011a:18)。この作品は少年がアガルタという地下世界を冒険するストーリーである。行き帰りという基本構成は『星追い』と同様だが、ここで問題とするのはその物語の構成ではなく、新海が子ども時代にこの本を読んだということである。これ以外にも、彼は幼いころからSF小説やファンタジー小説を熱心に読んでおり、また1970年代のハレー彗星ブーム、ノストラダムスの大予言、UFOといった体験(小林編,2005:83-91)は、SF要素の強かった『ほしのこえ』や『雲のむこう、約束の場所』、『星追い』でも設定として表れている。
 子どもたちは現実の世界を地理などの学校の授業や、テレビや新聞、インターネットといったメディアからある程度知ることができるというのは既述のとおりであるが、架空の世界を想像することもまた、メディアが創造する文学やマンガ、アニメ、ゲームのような作品群に触れることに依拠しているようである。ゆえに、新海が『星追い』を制作するにあたって児童文学を読んで得た架空の場所への地理的想像力を読み取ることができる。新海の子ども時代の地理的想像力は、『星追い』の視聴者たちに「まだ見ぬ世界」への憧れを提示しているのである。それが本作品をジュブナイル・ファンタジーと銘打った所以でもあろう。

(3)地理的想像力の創出と実践
 最後に、新海作品に描写されている風景には、制作者側による地理的想像力の創出と、視聴者側によるその実践が含まれているという点を指摘する。このことは、アニメの風景を読み、そこから地理的想像力を見出すために最も重要な問題である。
 まず、制作者側による地理的想像力の創出であるが、既に指摘したように、アニメは架空の舞台設定が組まれるものが多いが、一方で実存する風景を舞台として組み込む作品も見られる。具体的には、実在する市町村が設定として登場したり、さらには実存する市町村の風景—建物や道路、看板等—がアニメとして直接的・間接的に描かれているということである。そして、作品の発表とともにこのような舞台設定を視聴者側に提示することを、ここでは地理的想像力の創出と位置づけておく。新海作品においても『ほしのこえ』では埼玉県、『秒速5センチメートル』では東京都内や種子島の風景が忠実に描写されている(新海,2008)。このことは後述する視聴者側による地理的想像力の実践—「アニメ聖地巡礼」—に大きな影響を及ぼしているということはいうまでもない。
 『雲のむこう、約束の場所』においては、主な舞台やロケハンは青森県であるが、所々に登場する建物は、新海が中学・高校時代に過ごした場所をモティーフにしているとも言及している(角川書店編,2005:84)。『星追い』もまた、物語の主要な舞台は架空世界のアガルタであるが、アスナたちがアガルタへ旅立つまでの舞台は、新海によれば、彼の故郷である長野県佐久市や小海町の風景をモティーフにしたという。

 今回『星を追う子ども』では明確なロケハン場所がないんですね。長野県の佐久市小海町あたりをロケハンして写真はたくさん撮ったんですけど、そのままの場所っていうのがないので「ここに行けば聖地巡礼」ってのは言えなくてそこは残念だなって思ってます(笑)。(15)



 また、映画のパンフレットの記事では、この地でのロケハン作業では新海の父親の協力があり、舞台の高台や山肌はこの場所を意識しているとも書かれている(パルプライド,2011a:16)。直接的に風景のモティーフとしたと述べていないが、新海の故郷をロケハンの地として選んだことにはどのような意味があるのだろうか。この場所が、彼が子ども時代を過ごしたところであることと、前節の子どもの地理的想像力と関連づけるとある程度見えてくるものがあるのではないだろうか。
 地理学による人々の知覚環境の研究対象は大人の男性だけではない。1970年代以降、性別や人種、階級、そして年齢へと対象範囲が広がった。子どもの知覚環境は、大人のそれとは異なった様式で捉えており、また年齢とともにその範囲が拡大する(大西,2005:36)。子ども時代に体験した知覚環境がアニメ制作に何らかの影響を及ぼすことも然りである。新海が風景の色彩にこだわる理由については、以下のインタビューで明言されている。

 子どもの頃から見ていた風景が、自分の映像の風景の色彩設計に大きく影響を与えているのは確実です。印象に残っているのは、やはり山のある風景。裏山があって、その向こうに大きな八ヶ岳があって、冬になるとそれらが雪で真っ白になる。そして澄んだ空に朝日が昇ってくると、雪に反射して、その山の上だけが美しく光るんですよ。そういう風景や遠くにある巨大なものに対して、漠然と「なんかいいな」って思っていたんでしょうね。そうやって記憶とともに培われた「色彩に関する印象」が作品に生かされていると思います(角川書店編,2005:86)。



 このことは距離の次元でも触れたように、新海は遠くにあるものを、特定の場所から見えたままに忠実に描く姿勢を作品に色濃く出している。新海が子ども時代に経験した、通学する電車のなかから見える遠くの風景という知覚環境が、特定の実存する場所や風景をモティーフにさせ、地理的想像力を創出しているのだ。
 一方で、そうした場所や風景を目の当たりにした視聴者側による地理的想像力の実践は、既に述べたように、「アニメ聖地巡礼」によって執り行われている。
 岡本によれば、「アニメ聖地巡礼」研究には次の5つに分類される。すなわち、①アニメ聖地巡礼現象の成り立ちに関する研究、②アニメ聖地巡礼が元となって起こったまちおこしに関する研究、③アニメ聖地巡礼者の旅行行動に関する研究、④アニメ聖地巡礼者と地域住民の関係性について明らかにしている研究、⑤アニメ聖地巡礼研究の方法論を提示している研究である(岡本,2010:102-105)。地理的想像力と関連づけると、アニメ聖地巡礼者の行動論に着眼しなければならない。岡本は、アニメ聖地巡礼者には、舞台となった場所を特定し探訪する「開拓的聖地巡礼者」、特定された舞台の情報を元に探訪する「追随型アニメ聖地巡礼者」、さらにニュースなどの話題を受けて探訪する「二次的アニメ聖地巡礼者」の3種類が存在しているとしている(岡本,2010:102)。彼らは、舞台となった場所、モティーフとなった場所と、アニメのシーンとを見比べ、想像力を働かせながら、地理的想像力を実践しているのだ。
 ではなぜ、彼らは聖地を巡るのか。たとえばTVアニメ『らき☆すた』の舞台となった埼玉県鷲宮町の鷲宮神社に奉納されている「痛絵馬」や「オタク絵馬」、「聖地巡礼ノート」は、巡礼者がその場所に行ったという事実を何らかの形で残したり、感想を表明するツールであることはいうまでもない。また、ブログに公開されている聖地巡礼に関する記事や、聖地巡礼の様子を収めた動画もまた、自身が聖地巡礼を行った証であることや、他の巡礼者への情報提供につながるものである。しかし、彼ら、とりわけ最初に聖地巡礼を行う「開拓的聖地巡礼者」にとっては、舞台となった場所を探すプロセス自体に意味がある。彼らの、ある場所を探すという行為から見えてくるのは、アニメの舞台—場所—は、彼らにとって単なる背景画、風景画ではなく、場所そのものに何らかの価値を見出しているのである。地理的想像力を働かせながら舞台を巡る行為は、まるで場所との一体化を目指しているような印象を受ける。人間と自然との二元論を見直す最近の文化地理学でも指摘されているように、アニメの舞台(自然)と巡礼者(人間)の二元論的関係を克服する可能性が彼らの実践から見えてくるのではないだろうか。
 以上のように、新海作品群から見出した地理的想像力は3つの次元—物質的・時間的距離、人びとの「まだ見ぬ世界」への憧れ、制作者と視聴者の地理的想像力の創出と実践—を通して、風景の意味とそこに描かれている様々な想像力を読解し、場所の意味を理解することができるのだ。


Ⅳ おわりに

 私たちが実存する場所や架空の場所を想像し、表現する際、言語や絵画などを用いている。それは個々人の場所に対する経験が何らかの形で作用した極めて主観的な表現であり、その表現もまた、表現する側の人間によって様々である。地理的想像力もまた主観的意味合いの濃い概念である。
 本稿が分析の対象とした新海誠監督の作品においても、作品は制作者側、視聴者側の双方の地理的想像力に何らかの影響を与えていることを本稿では指摘した。新海作品に描かれる場所は、彼の個人的経験を色濃く映しており、それが自主制作出身の彼の最大の特色となっていることや、子どもの地理的想像力はアニメーション映画を含む、彼らの身近にあるメディアによる影響が大きいこと、そして実存する場所をアニメーションで表現することと、アニメ聖地巡礼は自然と人間との二元論的関係の克服の可能性があることを確認した。
 本稿が残した最大の課題は、地理的想像力の読解は題材の選出や解釈が研究者の主観に左右され、客観的・科学的検証が不十分であるという点だ。しかし、そもそも地理的想像力とは、科学的モデルを用いた「空間の地理学」の失敗から、「人間の地理学」への転換を目指したPrinceら人文主義地理学の潮流の原点ともいうべき用語でもあった。昨今のDanielsらの動向は、そのような地理的想像力の課題を、いかにして主観的解釈と科学的データの双方を用いて理論化するかを目指しているのである。



(1)Armesto,1991=1995より。
(2)本稿では本編の映像だけでなく、監督へのインタビューやパンフレット、設定資料などの関連資料も用いる。
(3)twitterのつぶやきをまとめるサービスtogetterでも多くのつぶやきが整理されている。
(4)BonnettやJohnstonの論考ではgeographical imaginationを、popular geographical imagination、academic geographical imaginationというように別々に表現しており、これが日本語訳における「地理的想像力」と「地理学的想像力」の表記の違いを表しているのではないかと思われる。
(5)ただし、『星追い』では、これまでの彼の作品で描かれた「メロドラマ」とは一変していることに注意しなければならない。
(6)動画投稿サイトYouTubeにいくつか投稿されているものがある。http://www.youtube.com/watch?v=AuH_9fKX3Vc
(7)2011年5月12日に行われた新海の舞台挨拶http://www.hoshi-o-kodomo.jp/report_01.phpや『星を追う子ども』パンフレットなど。
(8)(C)Makoto Shinkai/CoMix Wave Films,2002
(9)(C)Makoto Shinkai/CoMix Wave Films,2004
(10)前掲(6)
(11)(C)Makoto Shinkai/CoMix Wave Films,2007
(12)前掲(11)
(13)ただし明確に1970年代と設定したわけではなく、あくまで、もとにしているようである。作中に登場する組織「アルカンジェリ」の軍用兵器は明らかに現代的なものである。
(14)(C)COMMY,2011
(15)前掲(7)


参考文献
Armesto, F, F. eds.(1991)The Times Atlas of World Exploration: 3000 Years of Exploring, Explorers, and Mapmaking, Harpercollins.( 増田義郎監修『世界探検歴史地図』原書房,1995.)
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