映画評論34

2015年09月28日 20:15

十五夜の月夜に、日本の風情を感じるカリメン2号です。
とは言ってもカリメン2号は、花より団子というタイプなので、月見酒や十五夜の団子が主な目当てなんですが…。(何とも意地汚い)
今回のブログ記事は、またまた間に合った映画評論です。
毎回のことながら、本当に月末にアップする(色々な意味で)ギリギリの映画評論ですね。
と言うことで、今月分の映画評論をアップしたいと思います。
一応ですがネタバレなどの情報も含みますので、嫌な方は見ないでいただけると助かります。

『レザボア・ドッグス』
 世界の巨匠であるクエンティン・タランティーノ監督のデビュー作であり、その作品の面白さは世界に衝撃を与えた作品であった。自主製作で作られた、この『レザボア・ドッグス』であったのだが、あまりにも良く出来た作品に、ハリウッドでのリメイクが実現したのである。その緻密で丹念に作りこまれた人間描写は、作品に厚みを生み出し、映像の時間軸を巧みに使ったストーリー構成は、以後のタランティーノ作品に通じるものがある。
 ストーリーは、互いの素性すら知らない者たちが、宝石強盗をしようと集まり、計画を実行するのだが、見事に計画は失敗したのであった。彼らは隠れ家としている倉庫へと逃げ帰ってくるのであったが、そこで計画の参加者の中に警察の犬が混じっていると疑い始める。警察に撃たれた仲間のオレンジを寝かせ、ホワイトとピンクが言い争いを始めるが、そこに逃走する際、一人の警察官を捕まえたブラウンが倉庫にやってくるのであった。3人は警察官から、自分たちの中に紛れ込んだ警察の犬を聞き出そうとするが、ホワイトとピンクが倉庫を出た隙に、ブラウンが警察官を焼き殺そうとする。そんなブラウンを、オレンジが撃ち殺すのであった。実はオレンジは潜入捜査官で、計画を立案した主犯のジョーを追っているのであった。ホワイトたちが倉庫内に戻ってくると、ブラウンが殺されていることに兄弟分のエディが激高して、警察官を撃ち殺す。そこにジョーがやって来てオレンジが警察の犬だと告げるのであった。しかし、逃走の最中に助けられたホワイトはオレンジを庇い、互いが銃を向けあうことになる。銃での撃ち合いに、何とか生き残ったホワイトであったが、倉庫を警察が取り囲む。そして最後にオレンジが警察の犬であるという告白をオレンジ自身から聞き、彼を殺す決断をするのであった。
 映画の中で重要なのは、やはりファーストカットであろう。この『レザボア・ドッグス』のファーストカットの映像がとても印象的な作品であった。素性の知らない、ならず者たちの相関関係を、映像が横に流れるドリーショットと音楽の歌詞に出てくる女の解釈によって表現している。特にファーストカットで重要なのは食後のチップの支払いで、彼らの中で唯一、チップを払おうとしなかったのが、最後まで生き延びることの出来たピンクであったことだ。この事はピンクというキャラクターが、作品の中でただ一人、作品を通して変わることのないプライドを持っていたことに他ならない。その事を裏付けるように主人公のホワイトをはじめ、作中で何らかの心情的な変化をしていた者は、必ず死んでいるのである。映像の画面構成もキャラクターたちを中心として考えられており、全身の映るフルサイズとバストサイズが目立っていたように感じる。これは互い素性を知らない中で、キャラクターたちの距離感と、立たされている状況の位置関係に他ならないのではないだろうか。ストーリーとしても、倉庫の中というワンシチュエーションのドラマであるが故に、停滞した印象が多くなる映像を、奥行きのあるカメラアングルとカメラワークによってスピード感と緊迫感を出していた。その事を観客に明確に意識させることで、ストーリー自体にも奥行きを見出していたように思う。また、瀕死のオレンジが倉庫でブラウンを射殺するシーンや、ラストカットであるホワイトが抱えたオレンジの頭を撃つシーンも、絶妙なカメラワークによって「見せない」という演出をしていた。これが作品にアクセントを与えて、ワンシチュエーションのドラマであっても、観客が飽きることなく観ることの出来た要因であった。
 今回の映画作品の根底に流れているテーマは「変らない信念」ではないだろうかと思う。物語の中では、当初の計画と違うというようなことが、セリフの中に多く登場していた。これは、映画のテーマの象徴のように感じることが出来た。宝石強盗の段取りにしても、潜入捜査をしていたオレンジが、一般人を撃ち殺すことにしても、当事者にとっては全くの計算外であった。そんな中で自分の考えを変えずにいたのが、ピンクというキャラクターである。だからこそ彼だけが戦利品である宝石を持って逃げ、生きのびることが出来たのだと思う。そして編集においても、そのテーマ性は変わらず、登場人物の過去や強盗に参加する経緯が、色々なインサートとして使用されていたのだが、今回のテーマのである「変らない信念」ということの反面教師という意味合いで使われていたように感じた。映画の中では、彼らが立たされている立場や、変わっていくそれぞれの想いに繋がっているのではないだろうか。

今回の映画評論は、こんな感じです。
相変わらずのヒドイ出来栄え…。
とは言うものの、タランティーノ監督の評論は初めてでしたので、なかなか難しかったです。
特にタランティーノ監督の編集は、映画作品の構成そのものに関わってくるので、どの様に伝えれば良いかと悩みますね。
また、どうしても名監督と言われる監督たちの作品は、分析すればするほど、色々な観かたが出来てしまうので…。
だからカリメン2号は、評論するのを避けてしまう部分もありますね。
次回の記事は決まってませんが、早めに映画評論をアップできればと思っています。
映画評論のリクエストや情報の間違いがありましたら、コメントいただけると嬉しいです。

カリメン2号
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さぁ、ゲームの時間だ。in イベント・Part2

2015年09月23日 17:13

秋と言うにはまだ早いですが、それでも随分と涼しくなってきました。
シルバーウィークも色々とイベントごとが多いですが、カリメン2号は相変わらずインドアを楽しんでいます。
今年は連休も重なったこともあり、この時期になると紅葉の散策各地の秋祭りなどのイベントが、目立つようになってきますね。
まぁ、シルバーウィークと名を打っていますが、何やら訳の分からん休日が増えていますけど…。
それは兎も角としてイベントが増えることは、イベント好きのカリメン2号にとっては嬉しい限りです。
特にゲームに関していうと、数日前に東京ゲームショーというテレビゲームの一大イベントが、東京の幕張メッセで開催されていました。
ゲーム好きにはたまらないイベントであり、カリメン2号も一度くらいは参加してみたいイベントの一つです。
まぁしかし、距離的な問題で足を運ぶのは、現実的になかなか難しいですが…。
今回のブログ記事もゲームに関してなのですが、こちらはテレビゲームではなく、MTGというカードゲームのイベントに、またまた参加してきました。
思いのほか、近隣で開催されていたイベントなので、インドアなカリメン2号も、珍しく外出してきた次第です。

MTGのゲーム風景
ゲーム風景

割と大きなカードゲームのイベントともなると、メインイベント(対戦の勝敗を中心としてゲーム)とサブイベント(対戦自体の面白さ、またゲームそのものに触れてもらう目的)に分かれており、メインイベントではMTGの高い戦略を感じる、熱い戦いが繰り広げられていました。
ガチのプレイヤーではないカリメン2号は、メインイベントには参加していなかったのですが、それでもゲームを観戦しているだけで熱い血潮に胸躍るようでした。
何よりも、このイベントに参加して良かったと思えた事は、イベントの中で見ず知らずの人と、MTGを通して知り合いになることが出来たことだと思います。
一人でイベントに参加したにも関わらず、メインイベントに参加していた人を応援し、ゲームの勝敗に一喜一憂できたことが、何よりも楽しかったです。
うーん、流石は世界中で多くのプレイヤーにプレイされてるカードゲームだけはありますね。
参加されていたプレイヤーの皆さんは親切で、とてもフレンドリーな方が多く、MTGが紳士のゲームと言われているのも、納得の行く体験をさせてもらった気がします。
しかしながら、サブイベントのみに参加しようとしていたカリメン2号なのですが、メインイベントの参加者の多さや会場のサイズの関係など、色々な要因が重なり、結局のところサブイベント自体に、参加することが出来なかったのです。
メインイベントにも、勇気を出して参加すれば良かったと後悔しながら、またしても観てるだけ状態のイベント参加になってしまいました…。
残念!!
まぁ、それでも楽しかったから良かったんですけどね。
もしも次回も、このようなイベントが近場で開催されるのであれば、今度こそは参加できるようにしたいと思っています。

今回のブログ記事は、こんな感じです。
本当はシルバーウィーク中に、映画評論をアップしたかったのですが、このイベント参加に力を注ぎ過ぎてしまいました。
申し訳ないです…。
近いうちに、何とかして映画評論をアップしますので、もう少し待っていただけると嬉しいです。

カリメン2号

怪談という文化の考察

2015年09月15日 19:36

随分と涼しくなってきたように感じ、そろそろ秋の味覚が楽しみな時期になってきました。
そんな事ばかりを考えて、日々の生活を送っているカリメン2号です。
お盆を過ぎれば涼しくなるものですが、ここ数年の気候は暦通りとは行かないものですね…。
さて、無事に8月の映画評論をアップできたのは良いのですが、9月の映画評論も苦労しそうな予感に、今から戦々恐々です。
先月に書いたホラー映画の評論ですが、書き足りない部分も多くあり、ホラー映画自体の分析などは、大学時代に勉強していた民俗学や人文学を、ある程度の参考にさせてもらいました。
なので映画評論自体は、とても書きやすいように感じましたね。
そんな訳で、少しだけ怪談という文化について、個人的ではありますが、ブログに書かせていただきたいと思います。

大学に入学するまでは、これと言って特に趣味と言えるモノも存在しなかったカリメン2号ですが、大学に入学してまで、地元での生活のような閉鎖的な態度も如何なものかと思い、色々な事に参加するようになりました。
そんな風に大学での生活をしていくうちに、高校生を対象としたオープンキャンパスに参加することになったです。
民俗学や人文学などの学科がオープンキャンパスの公開授業を担当しており、そのゼミの一環として怪談や妖怪、怪異や都市伝説などと出会う切っ掛けになりました。
大学という研究機関での勉強ですので、一般の方が想像されるような怖いだけの怪談とは異なり、文化という視点から妖怪や怪談について分析を行うような事を学んでいました。
そのオープンキャンパスでは公開授業ということで、学生が授業で学んだ怪談の事につての考察を発表するものでした。
カリメン2号はオープンキャンパスのゼミ発表を、ある教授の助言をいただき、語りの文化としての落語と怪談について書きました。
有名な古典の怪談と言えば、4代目鶴屋南北(つるやなんぼく)の書いた歌舞伎狂言の『東海道四谷怪談』(とうかいどうよつやかいだん)や、初代三遊亭円朝(さんゆうていえんちょう)の語った落語の『真景累ヶ淵』(しんけいかさねがふち)などが挙げられるでしょうか。
ゼミ発表のテーマが「落語と怪談」という事だったので、『真景累ヶ淵』についてのレポートをカリメン2号は書きました。
今回のブログ記事の内容は、そのゼミ発表のレポートから抜粋したものです。
まずは、落語に馴染みのない方もいると思いますので(カリメン2号も、そこまで詳しくはないです。)、『真景累ヶ淵』の話を作った初代三遊亭円朝について、参考までに書かせていただきます。
天保10年~明治33年まで活躍した落語家であり、若干16歳で芸名を円朝に改め、真打ちとなった人物です。
当時は派手な衣装や小道具などを使った芝居噺で人気を集めてましたが、あることが切っ掛けで、実話に基づいた自作自演の怪談話を創作するようになるのでした。
そして、新たに始めたのは今までの芝居噺(または道具噺とも言う)ではなく、現代の落語に通じる扇一本で噺をするスタイルに変えて、初演をしたのが『真景累ヶ淵』だったそうです。
この話は『やまと新聞』に掲載された話であり、後に本として出版されたものでありますが、元々は『累ヶ淵後日怪談』 (かさねがふちごにちのかいだん)という話であったそうです。
累ヶ淵の話ですが、何故に頭の部分に「真景」と付いているのか言いますと、明治時代になると「怪談」という噺のジャンルは流行らなくなって行きました。
だがしかし、円朝はこの時代にあえて演目に「怪談」(真景累ヶ淵)を話そうと決めていました。
上記にも書きましたが、元々は『累ヶ淵後日怪談』という題名だったのですが、いっそのこと題名自体も改めようということで、円朝の隣人で親交のあった漢学者の信夫恕軒(しのぶじょけん)に助言を求めました。
そこで恕軒は、頭に「神経」という言葉を付けてはどうかと言ったそうです。
明治となり医学も発展していった時代の中で、出て来た医学の学術用語である「神経」という言葉が、一般の人々にも広まっていました。
近代以前にあった幽霊や怪談、怪異などの摩訶不思議な出来事といった類のものは、全てこの神経に原因があるのではというようなことが、人々に広まっていたからです。
これは面白いと思った円朝は、神経を真景と書いて「しんけい」と読ませ、今の『真景累ヶ淵』という題目の怪談噺が出来上がったそうです。
不思議なことや幽霊などという怪異が、この神経によって合理的に解釈されるようになり、言い知れないものに対する恐怖の存在は、こうして理由を付けられて恐怖の対象では無くなっていきました。
三遊亭圓生(さんゆうていえんしょう)が、この『真景累ヶ淵』の落語の口上で「幽霊というものはある人にはあり、ない人には無いんだという。」という事を語っていました。
真景(神経)の意味とは、悪い事残酷な事をした者は、どの様な悪人でも心が病むということなのです。
例えばですが、殺した相手が死ぬ間際に恨めしそうな顔して、こちらを睨んでいたということが脳裏に焼き付いて、ふとした時にそう見えるというのが神経なのだと、圓生は語っていました。
ある意味で現代社会にも通じるものがあるように思います。
8月にアップした映画評論の『リング』が、ここまで現代のジャパニーズホラーとして、世界的に注目された理由の一つも、人の因縁や因果というものがあるのかも知れませんね。
『リング』や『呪怨』などのジャパニーズホラー映画が、表現しようとしていた恐怖とは、未知のものに対する恐怖でもありますが、言い知れぬ気持ち悪さの正体は、幽霊よりも「人の業」というものに不気味さを感じる理由があるように思います。
そんな事を考えながら、ホラー映画を観るのも良いのではないでしょうか。

今回はこんな感じです。
いや、久々に大学時代のレポートを見ながら、映画評論を書いたので懐かしく感じました。
当時は色々なことを考えながら、映画を観ていたんだなぁと思いました。
今では、何も考えずに観ていることの方が多いように感じます…。
思いのほかタイミングが重なってしまいましたが、先日のニュースで『リング』や『呪怨』など、ジャパニーズホラーを手がけていた映画製作会社が破産してしまったそうです。
残念ですね。
隠れた名作である『仄暗い水の底から』や怖くも美しい『怪談』なんかも、とても良く出来た映画でした。
この製作会社が手掛けていたのですがね…。
確かに最近の日本のホラー映画は、面白い(怖い)と思えるものは少なくなってきているように思います。
次回は何にするか決まってはいませんが、早く映画評論を書かないと…。

カリメン2号

こういう見方もできるのでは?

2015年09月13日 00:10

  お久しぶりです。カリメン1号です。今日は高校時代に初めて見た『セブン』という映画の感想と言うか、思った事を書こうと思います。ネタバレとか気にせずに書くのでまだ見た事のない方は、読まないでください。映画『セブン』はデビッド・フィンチャー監督の長編映画2作目だったと思いますが、衝撃的なラストで公開当時評判になった映画だったと思います。話の内容は、定年を七日後に控えたサマセット刑事と着任したてのミルズ刑事が、キリスト教の七つの大罪に基づいて繰り広げられる殺人事件の犯人を追っていくという内容なんですが、思った事を書こうと思います。出だしとか暗い感じでバッドエンドに振り分けられると思うので、先の監督の3作目である『ゲーム』の方がカリメン1号は好きなのですが、ラストの落ちが高校時代に周りで言われていたのと若干違うのではないかと改めて見て思ったので書こうと思った次第なんですが、ここからはネタばれになるのでまだ見ていない方は注意してください。先にも書いたようにキリスト教の七つの大罪に基づいて行われる殺人なので七つの殺人が行われて犯人の思惑が完成するんですが、五つ目の殺人が発生してから結構簡単に犯人が出てくるんですよ。しかも、見直してみると直接犯人が手を下していないんじゃないかと思われるように事件は発生しているので、初めて見たときはミルズ刑事の最後の行動も理解できるなと思って見ていたんですが、見直してみると最初に思ったそういう犯人の思惑・行動ではなく別の考えが浮かんだんですよね。回りくどく言っていますが、ラストの内容を書かないと言っている意味が分かりませんので言いますが、五人目の死体が発見されてから犯人は自首してきて六人目、七人目の遺体の場所を教えるとしてミルズ刑事とサマセット刑事をある場所に犯人が連れて行くのですが、そこにミルズ刑事の奥さんの首が運送便で送られてきて、それに怒ったミルズ刑事が犯人を撃ち殺して七つの殺人が完成すると、こういう風にラストを読み取っていたのですが、本当は違ったのではないかと思ったんですよ。話の途中でわかる事なんですが、ミルズ刑事の奥さんは身ごもっていたんですが、その身ごもっていた事をミルズ刑事は知らず、奥さんの首が送られてきたと知らされたミルズ刑事が、奥さんが妊娠していたと犯人から知らされて、それが引き金になって犯人を撃ち殺すんですが、犯人は奥さんを殺していないのではないか?前の五つの殺人も犯人は直接手を下している訳ではなく、被害者に生きるか死ぬかを選択させて、被害者が死を選択しているように、最初は赤ちゃんの誕生祝いでケーキが送られてきたのではないかと考えていたのですが、妊娠期間から考えて、犯人が奥さんの子供をおろして(中絶させて)そのおろした赤ん坊を送ってきたのではないかと考えたんですよ。どちらにしろ六つ目の殺人はおかしている訳ですが、七つ目の殺人を完成させる為にわざと奥さんを殺したと言ったのではないか?結局本当の殺人を犯したのはミルズ刑事だけなのではないかという考えが浮かんだんです。こういう風に考えると犯人は別段何も罪になるような事はしていなく、人間の感情である怒りに身を任せて殺人を犯した刑事を陥れると言ったら変ですが、殺人の容疑者にして幕を閉じたという話ではなかったかと思ったんです。要するに奥さんの首を送ってきたと思わせた事も犯人の罠だったのではないかという事です。これはあくまでカリメン1号の解釈の仕方なのでいろいろ意見はあると思いますが、そういう見方もあるのではないかというカリメン1号の意見でした。『セブン』を見た事のある方は、そういう意見もふまえてもう一度見てくださると嬉しい限りです。

                                   カリメン1号

今月は、この話題を避けたかったが…。

2015年09月09日 15:47

季節の巡りは早く、気が付いたら9月になってしまいました。
時の流れを感じることもなく、精神と時の部屋のように、自分の周り(カリメン2号の頭の中)の次元のみが歪んでいるカリメン2号です。
日々の生活に変化の無いカリメン2号にとっては、ブログに書くことも特に無く、困ってしまいますね。
そうは言うものの、あるニュースが気になってしまいましたので、ここのブログに少しだけ書かせて頂きたいと思います。
まぁ、正直に言いますと、この手の話題は個人的な理由もあり、今月中のブログには記事にしたくないと思っていたのですが…。
しかし、9月のニュースとして出たのも、何かの縁だと思って、我慢していただければと思っています。

1年間という期間の中で、18歳以下の子供の自殺が、最も多くなるのが夏休み明けの9月であることが、内閣府の調査で明らかになったそうです。
確かに学生時代を振り返ってみると、休み明けの学校に行くことに、強い抵抗感を感じていたのは憶えています。
また、4月にも自殺者が多いようですが、この時期を含め、環境の変わる時期に自殺する者が多いのは理解できます…。
どの様な人間でも慣れ親しんだ環境から、新しい環境に飛び込んで行くのは、強いストレスを感じますから。
それにしても、18歳以下の子供たちの自殺が、9月に多いというのは、カリメン2号にとっては意外でした。
ここでハッキリと言っときますが、決して大人の社会が素晴らしく、希望に満ちたものではないです。
それの証拠に経済的な困窮によって、自らの命を絶つ人もいます。
しかしながら、学校カーストの記事にも書きましたが、子供たちは自らの力によって、自分自身の環境を選べないという事が、問題のポイントではないだろうかと思うのです。
経済的な自立が出来ていない(または難しい)以上、他者から与えられた環境の中で、自分自身に降りかかる問題の改善を図らなければならない。
これが思いのほか、しんどいのですよね…。
高校時代まで、閉塞的な環境で育ったカリメン2号も、大学生の時には「自由」という意味を、強く感じることが出来ました。
まぁ、「自由」というやつにも責任覚悟など、諸々の「しがらみ」は何処で何をしていようと付いて回るのですがね。
とは言え、経済的に自立している大人は、ある程度(自己の範囲で犠牲に出来るもの)の犠牲を払い環境を変えることが出来ると思います。
特に18歳以下の子供たち見ている世界というものは、案外と狭い世界しか見えてない場合が多いように感じます。
まぁ、カリメン2号自身も視野が狭いと言われるのですが…。
ただ単に生きながらえて来たカリメン2号が言えることは、世界とは無数にあり、その世界でしか生きられない人間はいないという事だけです。(その世界でしか生きたくないというのであれば、仕方ないですが…。)
何度も言っていることなのですが、安易な行動だけはしないで頂きたいと願うばかりです。

今回はこんな感じです。
最近は、色々と想うところがあり、思想的な記事になってしまいました…。
すいません。
記事を読んでくれる人が、楽しくなったり、元気になったりするブログを、カリメン2号は目指しているのですが…。
なかなか上手くは行かないものです。
次回は何にするかは決まってませんが、そろそろ映画評論を書き始めないと、間に合わないかもしれないですね…。

カリメン2号