映画評論31

2015年06月28日 20:00

季節は初夏の初めで、新緑が気持ちが良いですね。
基本的にインドアなカリメン2号も、夏の兆しに誘われて重い腰を上げて、外へ行く機会が増えました。
しかし、外出も良いのですが、外を出歩く場合でもある程度の準備が必要だと、カリメン2号は思うのです。
幼い頃は、林の中や裏山に探検に行ったものですが、この歳になると軽装の準備をして入らないと、不安になってしまいます…。
昔は結構、危険なことをしていたんだなぁ今更に思う次第です。
今回はそんな、新緑が作品の中に出てくる映画を評論したいと思っています。
とは言っても、そんなには出て来ないのですが…。
それは兎も角として、今回もネタばれなどの情報を含んでいますので、嫌な方は読まないで頂けると助かります。

『ゆれる』
 2009年に公開され、第83回キネマ旬報ベスト・テンの邦画部門の1位を獲得した『ディア・ドクター』。その監督の作品である『ゆれる』は、第59回カンヌ国際映画祭の監督週間に出品された作品である。優れた演出が評価されている西川美和は、処女作の『蛇イチゴ』から、一貫して監督自身が見た夢から得たインスピレーションで映画作品を制作し続けている。プロデュースをしているのは、『そして父になる』などの作品で、世界から注目を集める是枝裕和である。
 ストーリーは、東京で写真家をしていた猛は母親の一周忌に帰郷するのであった。久しぶりに帰って来たのは良いが、関係が険悪な父と何時も優しい兄の稔が出迎えてくれたのであった。久しぶりに帰って来た猛と幼馴染の智恵子を稔が近くの渓谷に行くよう誘うのであった。その渓谷の橋の上で事件が起こり、智恵子が川に転落してしまい亡くなってしまうのであった。現場に居た兄の稔に殺人の容疑が掛かってしまう。事件の瞬間を目撃していた猛は、必死に兄の無実を証明しようとするのだが、自分自身の中で気持ちの揺らぎを感じていくのであった。裁判の最後に猛は、ついに兄が智恵子を落としたのだと証言してしまうのであった。
 映画のファーストカットは重要であり、『ゆれる』という作品もその例に漏れず、作品の基調となる猛と稔の関係性が描かれている。主人公である弟の猛は、東京で写真家していることもあり、私生活は派手な印象を与えるものであった。母親の一周忌に、ワインレッド色の私服で遅れてくるような、破天荒なキャラクターで描かれていた。その一方、実家で父のガソリンスタンドを手伝っている兄の稔の方は、田舎の雰囲気の中で育ってきた堅い印象を受ける。二人の対照的な印象と作品の根幹をなすテーマは、法事の中に全て描かれているように感じた。特に坊主の説教が重要で「子供のように泣くわけにもいかず、泣きたい時もぐっとこらえたり、自分の弱いところを見せないよう、周りに牙を剥いてみたりと、卑しくなってしまう。」というセリフはまさに、これからこの兄弟が辿る事件と心情そのものを言い得ていた。物語として事件の起こるまでの前半部分は、兄弟の対比が強い印象になっているが、後半からは猛の心の変化へと兄への想いに主軸が推移していったように感じた。その映像を表現する方法として兄弟の対比が、対照的な2つのシーンを切り返すカットバック(クロスカッティング)という手法によって演出されていた。これが兄弟の対比を上手に表現し、強い印象を残すことに成功していたように思う。猛と智恵子とのベットシーンの対比として、ガソリンスタンドで働いている稔の映像などがそうである。また、ライティングに関しては自然光が多く、そこまで気になる部分は無かったように思う。しかし、ライティングの色によって表現されていた心理的な演出も目立っており、それを無視することは出来ない。車内での智恵子の心の変化を、信号機の変化によって表情していたり、渓谷に向かう車内の様子は、それぞれの想いも、このライティングによってなされていたように感じた。映画全体に言えることなのだが、演出が秀逸であった印象が強い。映像の奥行きを視線で表現しており、セリフの無いシーンでも視線の演技によって、映像を見せていた所がそうである。また事件の瞬間を映像として見せるのではなく、静をイメージした森から、動をイメージした川の流れの変化によって、登場人物たちの心の変化につなげる表現は、監督の演出の上手さを感じさせられた。
 作品のテーマは、すごくシンプルで「兄弟とは」という一言に尽きる。多くの場合、兄弟同士とは多くの共通項を持つ、最も身近な他人であるように思う。この映画の中では、兄弟同士の対立そのものが、自分自身にとっての確執であり、鏡を通した自分の姿であるということは間違いない。その事によって、兄弟を通してでしか自分自身を偽りなく振る舞えないということへの回答のように感じた。それは裁判のシーンで弟の猛が、兄を取り戻すためという理由で、証言台に立つ事に繋がって行ったのだろう。そしてその結果が、お互いの理解と独立に繋がって行くのであった。それがラストシーンに見せた稔の笑顔の意味であり、猛の必死の呼びかけなのだと感じた。

今回はこんな感じです。
最近のブログアップが、思想的な要素が強くなってきたので、修正しなければと思っていましたのでちょうど良かったです。
とは言うものの正直に言いますと、しんどい日々は続いているので、映画評論のアップは厳しい…。
評論の内容も、相変わらずの低クオリティ…。
泣きそうになりますね。
まぁ、それは仕方が無いとして、一応ですが情報の訂正や評論のリクエストも、お受けいたしておりますので。
次回は何になるかは決まってませんが、早めにアップできるよう努力いたしますね。

カリメン2号
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映像は暴力だ

2015年06月16日 01:27

久しぶりに劇場へと足を運び、満足感に浸っているカリメン2号です。
夏になると、イベント事も増えてきて陽気な時期になってくるのですが、冬以上に夏が苦手なカリメン2号にとっては、地獄の季節になってきました。
正直に言いますと、早くも溶けそう…。(体も頭の中も…。)
今回も独り言に近いのですが、映像関連で気になっていたので、少し話させていただきたいと思います。

機械技術の向上により、誰でも気軽に動画を撮影し、それをネット配信が出来るようになって来ている現代で、遂にインターネットの動画配信者の中から、撮影行為に関しての逮捕者が出ました。
YouTubeニコニコ動画など、近年は動画内容が過激なものになるのと同様に、撮影行為自体もどんどんと過激になって行くように思います。
最近の動画配信には、カリメン2号も思うところは多々あり、無法地帯化して来ているような気がします。
ここで逮捕された少年に、どうこう言うつもりは無いのですが、カリメン2号自身の考えであったり、撮影に関する指針は述べておこうと思います。
とある動画配信者が、この逮捕された少年にインタビューをしていたのですが、それが何とも道理の通らない内容としか言いようがないものでした。
公開されたインタビュー動画内で逮捕された少年は、ある事件の実名報道をしようと加害者宅に突撃撮影をしていた張本人であるにも関わらず、自分の顔は隠してインタビューに臨んでいました。
これは何の配慮なのだろうか?という事です。
「報道」という名の暴力を使うのであれば、最低でも自分の顔と実名ぐらいは公開して行うべきです。(まぁ、これは正直に言って、未成年であるのでいた仕方が無い部分もありますが…。)
その事が映像制作に関わったことのある人間として、一貫性の無さに違和感を感じたのは言うまでもありません。
また最近の動画配信者は過激な行動が目立つように感じ、「動画配信にも、ある程度の正義(言い分らしきもの)がある。」みたいな事を言っている配信者もいるようです。
だがしかし、彼らの言っている正義や大義名分の根拠は、あまりにも脆弱であるというこを、理解しているのだろうかと疑問に思うのです。
何もマスメディアが正しいとは思ってませんし、彼らが正義だと言うことはあり得ないですが、少なくても社会的ルールに則った報道がなされています。
それが会社を通して社員が給料を貰い、会社自身が社会に対して、ある程度の責任を負っているというのも事実でしょう。
面白い映像が撮れれば、誰を傷つけ何をやっても良いという訳ではないのです。
映像配信の傾向の一つに路上での生配信中も多く、警察沙汰(まぁ、通報される程度ですが…。)となる事も、しばしばあるように思います。
メディアの発達により、個人が映像を配信することは身近な事になっていくのですが、路上という公の場所での生中継は、関係者を含め色々な人をも撮影し、映像という名の暴力に巻き込むことになるのではないかと思うのです。
映像には力がある。
放送に一度でも関わったことのある人間であるならば、それは重々承知した上で撮影を行っていると思います。(これはカリメン2号の希望的観測も含みますが…。)
その力を振るうからには、当然のごとく法律という社会的なルールに則らなければなりません。
特に現代では肖像権や著作権、または撮影の許可などを含め、法律的に注意しなければならない事が多いです。

まず一つ目は、現場での映像撮影をして良いのかという事です。
場所によっては私有地なども多くありますので、撮影の際は、その場所の所有者の許可が必要となるという事を忘れてはいけません。
法律によって屋内や施設内での撮影は、管理者や所有者の許可が必要になるのです。
また公道などの公の場所においては、他者の通行や移動の妨げ、または危険な行為にならないように、細心の注意が必要となります。
今回の逮捕された少年の撮影行為は、恐らくこの事が主要な理由であるように思います。
二つ目に他人を無許可で撮影する場合の肖像権、またはプライバシーの侵害についての配慮ですね。
これも法律によって規定がありますが、正直に言いますと肖像権やプライバシー件は、かなりのグレーゾーンが設置されているように感じます。
人物が特定される映像ではあるが、その映像は一瞬の映像として映る程度は、その撮影目的と人物を特定する映像が、どれだけ鮮明かよると思います。
最後に物撮りなどにおける著作権の侵害についてです。
一応ですが撮影現場が公共スペースであれば、基本的には著作権法違反となることは無いと思われます。
しかし、ある有名なテーマパーク内のキャラクターやスポーツ観戦の試合内容は、個人で映像を楽しむ上では著作権の対象とならないそうです

このような事を理解しないままで、映像に関わった欲しくは無いとカリメン2号は思ってしまいます。
個人がマスメディアの映像を扱っている事や、メディアリテラシーという観点からも、やはり日本は世界から遅れを取っているように感じます。
特に放送に関わった事があるカリメン2号が思うに、この事はマスメディアにも言えたことであり、いわゆる「人の振り見て、我が振り直せ」という教訓ように思います。
最近のメディア報道は、偏った恣意性のあるものばかりで、体制批判の視野が無くなっているように思います。
元々、マスメディアの役目であり、その事が過激な内容になってしまう事もありますが、そこに社会規範も含まれなければ、ならないように思います。
それが在ったからこそ、報道にはある一定の権威があったのではないでしょうか。

今回はこんな感じです。
一応ですが、色々と調べていますが間違った情報も含まれるかもしれません。(不確定な情報もありますので…。)
色々とブログ記事には書きましたが、自分も人の事は言えない立場です。
ブログという不特定多数の人が目にするメディアを使い、自分の主張を列挙しているので…。
なので最低限の事はしたいと思うので、批判やご意見のコメントを頂ければ幸いです。
最悪の場合は、ブログ記事自体を削除いたします。
気分を害された方がいたのなら、誠にすいませんでした。
カテゴリは、映画についてですが映画関係の話では無く、マスメディアや報道関係の話になってしまいましたね。
申し訳ないです…。

カリメン2号

マイノリティ・レポートが社会を凌駕する日

2015年06月05日 19:54

最近は暑い日々が続いているようで、早くも夏が襲来かと思うのです。
暑いと言えば、今年はアニメーションを含むSF映画当たり年だと、勝手に熱い期待をしているカリメン2号です。
とは言うものの、あまりにブログに書くことが無く、どうしようかと頭を悩ませています。
SF映画の評論を書こうかとも思うのですが、書ける元気が無いのが実情ですね…。
なので今回も独り言をブログに書こうと思いますが、なかなか過激な内容になってしまいそうなので、先に謝罪しておきます。
また、犯罪を擁護するつもりや女性蔑視、ジェンダー差別をするつもりもありませんが、他者から見たら不快に思う内容かもしれませんので、嫌な方は見ないで頂けると助かります。
コメントや批判などもお受けいたしますので、あまりにヒドイ場合は記事自体を削除いたします。

暑くなってくると着る物も薄着になって来る時期ですね。
初夏になると動物の活動時間も増えていき、ある意味で変質者などの不快な者たちも増えてくる時期でもあります。
カリメン2号は変質者といよりは、変人(これもどうかと思うのだが…。)なので、犯罪行為をしないように気をつけています。
まぁ、犯罪をするつもりは無いですが、歩いているだけで職質を受けたこともあるので…。
それは兎も角、この時期になると痴漢行為をする者も出てくる訳ですが、この痴漢行為という犯罪に関して、些か疑問に思うことがあるのです。
こと痴漢に関しての被害者の多くは、女性であり、その心的外傷は多大なものだと思うのです。
女性は社会的地位や立場などの社会的観点、また力などの身体的観点の2点から見ても、広義の意味において社会的な弱者である事は確かです。(何を弱者と取るかは別問題)
しかし、痴漢で苦しんでいる女性がいる一方で、痴漢冤罪で苦しんでいる男性もいるということを、忘れてはならないと思うのですよ。
女性と男性の平等や同権が叫ばれている現代において、こと痴漢(特に電車の車両内での)という犯罪行為に関しては、何やら異様な印象を受けます。
犯罪である以上は社会的な制裁必須であり、そのためには物証や証言によって犯罪を立証する必要があるのだが、現行の法律や裁判による判例のみを重視する現状は、あまりにも歪なように思います。
痴漢行為の裁判における被告側の有罪率が、約9~8割であるとう異常さは、法治国家としてはあまりにも不可思議です。
犯罪行為なので、逃げ得を許せない気持ちは理解できますが、それはどんな犯罪においても同じことが言えるでしょう。
先進国の国家として男女同権というのは重要な考え方であるということは理解していますが、何でも「平等」であるべきだとは思えないのです。
そもそも、生き物としてに女性と男性の社会的機能生物的機能、または精神構造に至るまで「同じである」とは言い難い。
カリメン2号が思うには、何でも平等にするというよりは、どちらかと言うと社会的に公平であるべきではないだろうかと思うのです。
平等を謳うのであれば、女性専用車両があるなら男性専用車両があって然るべきであり、女性が男性にした痴漢、もしくは強制わいせつ行為も同等の処罰にすべきではないのだろうかと思うのです。(恐らく数は圧倒的に少ないでしょうが…。)
これは性別により差別なのでは無く、人間的な尊厳に関わる問題であるように感じるのです。
これだけ、女性の社会進出がなされてきているのに対して、法律という概念は未だに「女性とは弱者」という扱いを変えようとしていないのです。
この事が、あえて女性の社会進出の妨げになっているのではないだろうか、と考えることがあります。
上記にも書きましたが、確かに女性には弱いとされる部分もありますが、それは男性も同じで弱い部分を持っているということなのです。
性別ということに関して、法律や国の指針につて考えると、つい先日の事なのですがアイルランドにおいて、同性婚を認める憲法改正の国民投票が行われたそうです。
なんとその国民投票の結果が、賛成多数同姓婚を認める法改正案が承認されたのです。
アイルランドという国はキリスト教が多く、特に保守派のカトリックが多数派を占めているそうで、保守派のカトリックは同姓婚を教義上、認めてはいないのです。
そのような宗教が多数を占めてる中で、セクシャル・マイノリティがマジョリティを勝ち取ったということは驚きの事です。
これは世界における固定概念の変化によって、人は新たな選択肢を得たのだと感じました。
今までのように多数であったはずの意見はマイノリティになり、少数派の意見であったことがマジョリティになる。
まさにマイノリティ・レポート社会を動かす時が来たのだと感じる出来事でした。

今回は、こんな感じです。
まとまって無い…。
本当に書きたいことが、まとまって無い!!
まぁ独り言ですし、良いですよね。
反対意見などのコメントで、ブログが炎上しない事を祈りつつ、次回は何にするか…。
気長に待っていただけると助かります。

カリメン2号