均一化された世界へ

2016年04月25日 23:46

気が付いたら、もう4月になってしまい、季節の内容を含む記事を書きそびれてしまったカリメン2号です。
2月や3月もイベント事が多く、本来ならばブログ記事を書くネタが多かったはずなのですが…。
時間の流れが早いと感じるのは何時ものことで、2月の節分時期には豆と恵方巻が商品棚に鎮座していました。
しかしながら、節分が一日でも過ぎてしまうと商品棚には、バレンタイン用のチョコレートに展示が変更されていました。
節分の日には豆ではなく、ミックスナッツを食べながら独りで過ごしていたカリメン2号にとっては、バレンタインほど関係のないイベントはないですけどね。(涙)
まぁ、それは置いといて昔かあった行事ではあるのですが、ここまで大きなイベント事になってしまっているとは…。

少し前のニュースに「喫煙のシーンが含まれる映画やドラマは、若者を喫煙に誘導する効果が高い」として、「成人向け」に指定するよう、世界保健機関(WHO)が各国に規制するように呼び掛けたというものが流れました。
映像関係に関わったことのあるカリメン2号にとって、このニュースは大きな問題を孕んでいるように感じてしまいました。
確かに多くの映画やドラマ、またはアニメーションの中では、役者がタバコを吸うというシーンは多く見られます。
その事で、若者がタバコを吸うという行為を真似て、喫煙者になる場合も確かにあるでしょう。(美味そうに吸うシーンがあると、吸いたくなってしまうんですよね。元・喫煙者より)
しかしながら、映画やドラマなどの芸術という側面を持つメディアに対して、新たに規制を設けるということは、拡大解釈にすれば、いずれかは「表現の自由」という問題に繋がっていくのではないかと考えてしまいます。
特に最近の傾向としては、重大な犯罪を犯した未成年が、嗜好していたアニメーション作品が取りざたされていることが多いです。
過激な表現を含んでいるアニメに対しての風当たりは強く、「こんな悪影響なモノを見ていたから、犯罪を犯したんだ」という風潮があるのは確かなようです。
確かにマスメディアというツールには、多大な影響力があるとは思います。
しかし、だからと言って映像によって個人の意識に、何処までの影響を及ぼすことが出来るのかという、科学的な実証の根拠自体は、現時点では存在しません。
特に娯楽性の強い映画やゲーム、アニメなどの作品は、多感な時期の未成年でも入手は容易です。
そのために業界側も性表現や暴力表現については「R‐15」や「R‐18」などの規制を自主的に掛けています。
ある程度は仕方が無いことのだと思いますが、現在の規制の在り方にも考えなければならないことが多いです。
近年では、この規制の風潮がメインカルチャーである芸術にも波及しており、最も分かり易いものとしては江戸時代に流行した春画でしょうか。
春画とは、江戸時代に流行した浮世絵師たちによって描かれた、性や愛をテーマにした版画のことであり、現在では世界的なコレクターもいます。
芸術品としての評価は高いとされる一方で、その性描写はあまりにも大胆で直接的なものが含まれる場合が多いです。
まぁ、簡単に言ってしまえば江戸時代の風土を写したエロ本ですよ。
しかしながら、この春画の展覧会が東京で行われた時に「日本で生まれた春画のすばらしさを多くの人に伝えたい。」とは言うものの、性的な表現を多分に含むことから18歳未満は入場を禁止という措置が取られました。
国が認めた芸術作品の展示会が、18歳未満は入場禁止という何とも中途半端な配慮は、何なのだろうと思ってしまいます。
これではカリメン2号が思うに、場末のポルノ映画を上映している劇場と、やっていることは変わらないのではないかと感じますね。
誤解が無いように追記しておきますが、カリメン2号は場末のポルノ映画がダメだとは、全く思ってませんので。
映画の歴史上ではピンク映画日活ロマンポルノなどから、多くの名監督が誕生していますから。
まぁ、未成年に自己責任を問うのは酷な話ですので、せめても親の承諾で入場させても良かったのではと思います。
芸術である春画が規制の対象となるのなら、サブカルチャーであるマンガやゲームも、これから多くの規制が成されていくのではないかと危惧してしまいますね。
そもそもサブカルチャーとは、長い歴史の中で培われてきた文学や絵画、音楽になどのようなメインカルチャーではなく、アンダーグランドな世界で育まれた文化であるということです。
それを権力を有する側が、一方的な価値基準によって規制や取り締まりを強化すること自体に、強い不快感不安を感じざる負えないですね。
映画というメディアでも、この様な問題は存在しており、2013年に亡くなった映画監督の大島渚監督の言葉を借りるなら、「わいせつ、なぜ悪い。」と言ったところでしょうか。
近年になりインターネットなどのメディアの発展に伴い、特に表現への規制が厳しくなって来ているように感じます。
表現の自由という意味において、国家などの権力を有する側が、個人の嗜好にまでも介入する日が来るのではないかと、カリメン2号は危惧しているのです。
それは国によって均一化された人々による、均一化された社会形成のように感じてしまいました。

毎回のことながら前振りが長くなってしまい、本当に申し訳ないです…。
それでは本題の今回のブログ内容は、そんな均一化された近未来の世界を舞台にしたアニメーション作品である『PSYCHO-PASS サイコパス』です。
制作は『攻殻機動隊』などで有名なProduction I.Gによって作られ、2012年10月にノイタミナ枠で放送されていた作品です。
近未来SFのアニメーション作品としては、有名な『攻殻機動隊』との差別化を図るためなのか、電脳やサイボーグといった類の描写は殆ど無いです。
その代わり管理された社会に焦点を当てた世界観は、機械によって人間の精神を数値化し、それによって管理される世界という近未来SFの世界観になっていました。
面白く感じたのは、そんなシステム化された世界観にもかかわらず、登場するキャラクターたちは人間味の溢れるキャラクターが多いことです。
それが犯罪者を追い詰める重要な要素になっていること、そして今現代の問題として法律(ルール)正義の在り方についてが、とても深く掘り下げられていたように思います。
アニメ作品の雰囲気としては、SF映画の『ブレードランナー』と『‹harmony/›』(ハーモニー)、そして『踊る大捜査線』を掛け合わせた様なハードボイルドな刑事ものなっていました。

ストーリーは、新任の監視官として公安局に配属になった主人公の常守朱(つねもり あかね)は、そこで執行官の狡噛慎也(こうがみ しんや)と出会うのであった。執行官とは犯罪者の思考パターンを理解できるがゆえに、自分自身も潜在犯として犯罪係数が高い者たちで、公安の猟犬として共に犯罪者を捕まえるのが仕事であった。そんな中、社会全体の監視システムであるシビュラの目を掻い潜り、凄惨な事件の裏で犯罪を操っている人物がいた。彼の名は填島聖護(まきしま しょうご)と言い、3年前に監視官であった狡噛が、執行官になってしまう「標本事件」に関わっていた。様々な事件を追う中で常守の前に、遂に姿を現した填島であったが、犯罪者の犯罪係数を見極めるドミネーターが彼に反応せず、常守の友人が目の前で殺されてしまうのであった。逮捕されることの無かった填島は、周囲の犯罪係数をコピーすることで、監視システムに感知されないヘルメットを配り、街の暴動を起こさせるのであった。その真の目的はシビュラシステムの、牽いては監視システムに依存した社会自体の崩壊を目論んでいたのだが、真意に気が付いた狡噛と常守によって遂に逮捕される。填島の身柄を移動する最中、彼はシビュラシステムの正体を公安局局長の禾生壌宗(かせい じょうしゅう)から聞かされ、シビュラの一員になるよう促されるも、填島は禾生を殺害し逃亡するのであった。填島の逃亡を聞かされた狡噛は、執行官としての限界を感じ、今の法律(シビュラシステム)では填島を裁けないのなら、法律(シビュラシステム)では人は守れないと思い、違う道を選ぶのであった。狡噛は臨床心理学の元教授である雑賀譲二(さいが じょうじ)の協力により、次に填島が狙うのは食料自給の99%を担う小麦を壊滅させるバイオテロだということに気が付く。狡噛と袂を分かった公安の常守は、シビュラシステム自身からシビュラの真実を聞かされる。今まで聞かされてきた、人間の意志に依存しないスーパーコンピューターによる、公平公正な社会システムの真実は、凶悪犯罪者を含む、填島のような犯罪係数の特定が出来ない人間たちの脳を、200以上も統合させ運用している演算システムであったのだ。その真実を見せつけられながらも常守は、人々が形成する社会というものを信じ、填島を殺そうとする狡噛と槙島の再逮捕へと急ぐのであった。

―僕は”人の魂の輝き”が見たい。それが本当に尊いものだと確かめたい。―
―だが己の意志を問うこともせず、ただシビュラの神託のままに生きる人間たちに、果たして価値はあるんだろうか?―


ここ最近で観たテレビアニメでは、近未来SFものとしてかなりの完成度だと感じました。
世界的に有名な『攻殻機動隊』や『イヴの時間』、『‹harmony/›』(ハーモニー)などの作品のように明確なコンセプト問題提起が成されていたように思います。
設定が近未来ということもあり、監視システムが法律の役割を担っている世界観になっていますが、今現代の社会問題にも通じる部分があり、法律の在り方とは、正義の在り方とはという命題について、観る者に問い質してくるように感じました。
またアニメ第一期の総監督が、『踊る大走査線』の監督であった本広克行であった事もあり、公安組織における群像劇と魅力的なキャラクターは、観ていても心地良いテンポ作品が進み、キャラクター自身も生き生きとしていました。
作品の各所には文学的な要素も散りばめられており、フィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』やジョナサン・スウィフトの『ガリヴァー旅行記』という作品や、ジョージ・オーウェルやウィリアム・ギブスンなどの、SFファンには堪らない名前が登場します。
過去の偉大なSF作品のオマージュを取り入れることによって、キャラクター自体にも厚みが増し、往年のSF作品にも敬意を示していた事には好印象を受けました。
ただやはり近未来のSF作品であるが故に、犯罪係数という数値計測が、技術的に曖昧な部分が多かったように感じていまえたのは、少しばかり残念でなりません。

今回は紹介記事は、こんな感じです。
またも、記事の内容が長くなってしまいました…。
本当に申し訳ないです。
やはり自分が好きなモノを紹介する時は、話が長くなってしまいますね。
メディアツールとしての技術が発達したことにより、今現代は監視社会に近づきつつあるようにカリメン2号は感じます。
インターネットによる無許可の映像配信については、過去の記事にも書きましたが、ある程度の社会的なルールは必要不可欠だと感じています。
ただ、それが行き過ぎてしまうと『PSYCHO-PASS』(サイコパス)のような、均一化された監視社会にまってしまうのではないでしょうか。
次回のブログ記事が決まってませんが、早めに映画についての記事や映画評論をアップしたいと思っています。
しかしながら、自分自身の元気が持つのか、とても心配です。

カリメン2号
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まさに優しさという凶器

2015年12月14日 17:36

暖冬とは言いうものの気温はドンドンと下がり、冬の到来を告げている今日この頃ですが、気温と一緒にドンドンとテンションが下がっているカリメン2号です。
元気は無いですが、それなりに頑張っていきたいと思います。
最近になって身近な人が病気となり、医療について考える機会が増えて来ました。
カリメン2号自身もケガが多い方だったので、ある程度は考えていたのですが、思いのほか自分以外の人が病院の世話になると思うと、なかなか落ち着かないものですね。
そんな最中でも、自分の生活スタイルは変わることは無く、定期的に劇場へと足を運んでいます。(本当にダメ人間ですよね…。)
そして先日のことですが、伊藤計劃のSFアニメーション映画である『‹harmony/›』(ハーモニー)を観て来ました。
作品内容のベースに医療を取り上げてることもあり、何だか他人ごとではないような感じを受けてしまいました。

しつこいようですが、このブログで言っている通り、今年はSF作品の当たり年という事で、非常に注目していた作品の一つです。
しかし、しかしながら…。
映画作品としては、それほど良い作品では無かったように感じます。
カリメン2号が、気になった点がいくつか在ったので、それについて少しだけ評論をしたいと思います。
これは予告編でも感じていたのですが、重要人物である御水ミァハ(ミヒエ ミァハ)というキャラクターの役柄が、自分の中のイメージとズレを感じる声質だったように思います。
映画製作サイドは、少女特有の透明感のある高音域をイメージして作ったのだと思いますが、その結果として、知的で不思議な印象のミァハが、あまりにも軽いキャラクターの印象になってしまっていたように感じました。
特にカリメン2号の中では、彼女のイメージはアニメ『PSYCHO-PASS サイコパス』で登場した填島聖護(まきしま しょうご)のイメージに近かったこともあり、この軽い印象には強い違和感を感じました。
また、近未来という設定もあり、CGアニメーションの演出が目立っていたように思います。
しかしながら、残念なことに必要以上にCGを駆使していた印象が強く、人物たちの生々しさの無さは、無機質な作品のイメージの中で、逆に不自然さを感じさせるようになってしまっていたように感じました。
そして何よりも、この事はどの様な作品にも言える事なのですが、上映や制作といった「時間」の制限がある中で、仕方が無い部分は存在すると思います。
特に今回の『‹harmony/›』に関しては、『虐殺器官』の公開延期に伴い、公開日程が繰り上がったことも要因の一つなのでしょう。
それでも、あまりにもキャラクターの背景や舞台設定の説明が不十分過ぎるという点は大きな問題だと思いました。
これは『劇場版 PSYCHO-PASS サイコパス』の時にも感じたことなのですが、作品の本質というよりは物語のストーリーを追うことに、精一杯になってしまっていました。
映画版の『‹harmony/›』という作品の評価としては、正直に言って原作内容の消化不足が目立ってしまったように感じます。
まぁ、これだけの辛口な批評なのは、恐らくですが原作小説の『ハーモニー』を、映画を観る前に読んでしまっていたっからだと思いますが…。
ただ、原作を読んでいたので映画として良かった点も見つけることが出来ました。
物語としてのラストシーンは原作に忠実であり、ミァハとトァンの対峙するシーンは良かったように思います。
正直に言いますと、あれ以外のラストシーンは考えられないでしょう。
また、主人公であるトァンのキャラクターに、ブレが少なかったことが高評価ですが、学生時代のエピソードが大幅にカットされていたので、小説を読んでいない観客にとっては、感情移入しにくかったのではないかと思います。

それは兎も角として、また前振りが長くなってしまいましたが、今回は紹介記事ということで、伊藤計劃の遺作となった小説である『ハーモニー』を紹介したいと思います。
今回もネタバレなどの情報も含みますので、嫌な方は見ないでいただけると助かります。
過去のブログ記事でも紹介しました伊藤計劃という人物の作品は、今現在も多くのクリエイターに影響を与えています。
それ自体が、まさに彼自身の計画であったかのように…。
『ハーモニー』という小説もSFの長編作品として、第30回日本SF大賞を受賞し、映画化されることによって、多くの人が伊藤計劃という人物の作品に触れることになりました。

ストーリーは、独白で始まる「わたし」の物語。アメリカ合衆国で発生した戦争と、未知のウイルスの蔓延という惨事を「大災禍」(ザ・メイルストロム)と名付けた近未来の世界で、既存の政府という機構は崩壊し、代わりに高度な医療主義の社会が成り立っていた。そこでは、WatchMeという機器を体に付けられ、誰の体も公共のリソースとみなされる社会なり、その社会のためには健康で幸福的な生活を強要されるのであった。そんな世界の一端を担った研究者の霧慧ヌァザ(キリエ ヌァザ)を父に持つ霧慧トァンは、自由・博愛・平等を押し付けてくる社会を憎悪する御冷ミァハに出会う。「誰にでも優しい社会」に息苦しさを感じていたトァンは、ミァハの誘いで友人である零下堂キアン(レイカドウ キアン)と共に、公共のリソースである自分自身を殺すことを試みるのだった。だがしかし、死ぬことが出来たのはミァハだけで、トァンとキアンは生き残ってしまう。ミァハだけを先に逝かせてしまい、自分たちだけが大人になってしまったトァンは、息苦しい世界から逃げるようにWHO螺旋監察の上級監察官として、世界中の戦地を渡り歩いていた。その戦地では「生府」が禁止している飲酒・喫煙を、息抜きとして嗜んでいたトァンだったのだが、その事実が露見すると日本へと強制的に送還されてしまうのであった。あの息の詰まるような優しい世界に久々に戻ってきたトァンは、友人のキアンと一緒に昼食を取っていたのだが、その目の前でキアンが自殺してしまう事件に遭遇する。トァンは同時刻に6582人の人々が自殺を図るという事件を追う中で、キアンの遺言である「うん、ごめんね、ミァハ」という言葉から、ミァハの存在を感じるのであった。ミァハの遺体を引き取ったとされる父の研究仲間である冴紀ケイタ(サエキ エイタ)博士の所で、トァンは父である霧慧ヌァザが、人間の意志を操作する研究を行っていたことを聞かされるのであった。そして、自殺直前のキアンの通話記録からミァハが生きていたという事実を突き止める。ミァハの影を追っている最中、同時多発自殺事件を実行した犯人の犯行声明がテレビ放送され、「これから一週間以内に、誰かひとり以上を殺してください。それができない人には、死んでもらいます。」という驚くべき内容であった。ミァハの存在を確信したトァンは、真相を確かめるため母と自分を捨てた父のヌァザと再開する。そして父が「次世代ヒト行動特性記述ワーキンググループ」という組織の中心人物であり、人間の意志を操作する研究によって、人間の意志を制御すること。それが「大災禍」(ザ・メイルストロム)の再来を防ぐための「ハーモニー・プログラム」という研究をしていたことを知るのであった。その実験体として、特殊な民族の出身であるミァハを使ったのだと聞かされる。しかしながら「ハーモニー・プログラム」には副作用としてプログラムを実施することによって、人間の意識が消滅してしまうという結果に行き着いたのであった。そして、この同時多発自殺事件の真の目的は、その「ハーモニー・プログラム」を実行するために、ワーキンググループの急進派であるミァハが、仕組んでいたという事実を聞かされる。トァンは急進派から「ミァハはチェチェンで待っている」と聞かされと、ミァハとの決着をつけるためにチェチェンの山岳地帯に向かうのであった。

<優しさは、対価として優しさを要求する>

伊藤計劃という作家の作品を読むと、『虐殺器官』が好きな人と、この『ハーモニー』が好きな人は分かれると聞きます。
確かに文章の構成や文体の違い、作品によっての好みが分かれるのは納得できるでしょう。
しかしながら、小説で描きだそうとしている本質的な部分には、やはりブレが無いように感じます。
文章自体に不思議ながあるのは変わりなく、人間の根幹である「魂とは」というテーマ性が見て取れるように思います。
人間が魂のある動物であるのなら、社会という規範の中で人間とは、どう在るべきなのかということを、読者に問うてくるあたりは、前作の『虐殺器官』と通ずるものがあるように感じました。
特に今回の作品では社会というコミュニティの、牽いてはミァハとトァンとの調和(ハーモニー)とは何なのか、の一言に尽きるのではないでしょうか。
近未来を舞台にしたSF作品である以上、現代社会の問題とは切っても切れない部分が存在しており、それを盛り込んだ作品であるのは間違いないでしょう。
病の床に伏しながらも『ハーモニー』を執筆することによって、医療の在り方や命に在り方について、考える機会が増えたのだと思います。
自らの命を絶つ自殺が大きな社会問題となっている昨今ですが、共同体としての社会の在り方について、ある意味での回答(正しいとは限りませんが…。)を伊藤計劃は物語の中で示されているように思うのです。
それは小説の文章からも明らかで「わたしは、毎年無為に命を落としていく何百万の魂のために、魂のない世界を作ろうとしたの」や「この社会にとって完璧な人類を求めたら、魂は最も不要な要素だった。」というセリフが存在するのが、その証拠なのではないでしょうか。
日本社会では場の雰囲気を配慮する傾向が強く、「空気を読む」という言葉が一般的なことになりつつあります。
しかしながら、それが極端な形で形成されると、この『ハーモニー』のような世界になってしまうのでは、という警鐘のように感じました。
小説の冒頭に出てきた、タマシェクの民(トゥアレグの民)の「我々は程々に嗜むことを知っている。」というセリフが、痛烈な皮肉になっており、そして妙に現実味のある言葉だったように思います。
そう、何事も程々が良いのではないでしょうか。

今回の紹介記事は、こんな感じです。
うぅ…。
またブログ記事が長くなってしまった…。
しかも、内容がまとまってない点も気になりますね。
記事の内容の大部分がストーリーに割かれているのは、紹介記事としてはどうなのでしょう。
因みに明記されていないですが、この『ハーモニー』という作品は、時間系列でいうと『虐殺器官』の後世の話だと思われます。
『虐殺器官』で使用されていた虐殺というプログラムが、本作で登場していた「大災禍」(ザ・メイルストロム)引き金になったと思われます。
どちらの作品も、SF作品としては読みやすい分類になっていると思いますので、興味のある方は是非とも手に取ってみてはいかがでしょうか。
次回のブログ記事は決まっていませんが、早めに映画評論をアップできればと思っています。

カリメン2号

友の名を記した帳面

2015年10月08日 17:39

秋と呼ぶにはまだ早く、季節の移ろいを、この目で見ることはまだないですね。
それでも随分と秋の足音が、聞こえて来るように感じるカリメン2号です。
○○の秋と言えば、皆さんは何を思い浮かべるでしょうか?
カリメン2号は、ダントツで食欲の秋です。
とは言っても、この時期は芸術鑑賞でも、早秋の散策にも、良い季節にあることは間違いないと思います。
そんな時期ではありますが、着実に人肌の恋しい冬が近づいていることは確かであり、今回のブログ紹介は、心温まるようなマンガ作品の紹介をしたいと思います。
心温まるとは書きましたが、それは人間同士に限ったことでは無く、人は色々なものと心を通わせることが出来るのではと思います。
妖怪やモノノ怪などが登場するヒューマンストーリーも多く、今回の紹介する『夏目友人帳』もその一つでしょうか。
ここ最近では、ブログ記事もホラー映画の評論や、落語の怪談話などが多かったので、頭の中が妖怪一色に染まりつつあります。
それを何とかリセットしょうと思ったのですが、ハロウィンも近いこともあり、またまた妖怪関係の話になってしまいました。

ストーリーは、両親を早くに亡くした少年の夏目貴志(なつめ たかし)は、親戚の家を転々とする生活を送っていた。そんなある日のこと、心優しい藤原夫妻に引き取られることになり、新たな生活が始まるのであった。しかし、実は夏目には重大な秘密があり、なんと彼は妖怪という類のものが見える体質であった。ある事が切っ掛けで、神社に付近に封印されていたニャンコ先生こと斑(まだら)を解放してしまい、なぜ自分が付近の妖怪たちから狙われているのかという理由を知るのであった。彼の祖母であるレイコが残した「友人帳」は、彼女が打ち負かした妖怪の名が記されており、名を記した妖怪を統べることの出来る代物であったのだ。夏目は名前を妖怪たちに返すことを決心し、その途中で命を落としたら「友人帳」を、斑に譲る代わりに用心棒をしてもらうことを約束する。名を返してもらいに来る妖怪たちとの出会いと別れは、夏目の心を揺り動かし、何かと騒がしい日々が続いていくのであった。

―小さい頃から時々、変なものを見た。―
―他人には見えないらしいそれらは、おそらく妖怪と呼ばれるものの類―


こんな感じの作品です。
原作者は緑川ゆきという方で、白泉社の『月刊LaLa』という雑誌にて連載されています。
作風は典型的な少女マンガのような、綺麗で美しい絵を書くマンガ家ではないですが、心温まるストーリー構成や穏やかなセルフなどによって、切なくも心温まる雰囲気を作り出している作品です。
妖怪譚でありながら、自分にしか見えないものとの、出会ってしまうことの喜びと、見えないながらも通じ合う心の別れが、何とも切なく愛おしい作品だと思いました。
原作のマンガである『夏目友人帳』は、人気がありアニメやドラマCD、小説にもなっているほどです。
気になる方は、是非とも読んでみてはいかがでしょうか。

今回は、こんな感じのマンガ紹介になりました。
定期的にブログ更新をしていきたいと思っているのですが、なかなか上手くはいかないですね。
ブログにアップする話題が無く、記事の内容を考えるのも一苦労のカリメン2号です。
次回は何の記事をアップするかは決まってませんが、なるべくなら映画評論をアップしたいと思っています。
映画評論を後まで残しておくと、月末のブログ記事のアップが大変なことになりますし…。

カリメン2号

こういう見方もできるのでは?

2015年09月13日 00:10

  お久しぶりです。カリメン1号です。今日は高校時代に初めて見た『セブン』という映画の感想と言うか、思った事を書こうと思います。ネタバレとか気にせずに書くのでまだ見た事のない方は、読まないでください。映画『セブン』はデビッド・フィンチャー監督の長編映画2作目だったと思いますが、衝撃的なラストで公開当時評判になった映画だったと思います。話の内容は、定年を七日後に控えたサマセット刑事と着任したてのミルズ刑事が、キリスト教の七つの大罪に基づいて繰り広げられる殺人事件の犯人を追っていくという内容なんですが、思った事を書こうと思います。出だしとか暗い感じでバッドエンドに振り分けられると思うので、先の監督の3作目である『ゲーム』の方がカリメン1号は好きなのですが、ラストの落ちが高校時代に周りで言われていたのと若干違うのではないかと改めて見て思ったので書こうと思った次第なんですが、ここからはネタばれになるのでまだ見ていない方は注意してください。先にも書いたようにキリスト教の七つの大罪に基づいて行われる殺人なので七つの殺人が行われて犯人の思惑が完成するんですが、五つ目の殺人が発生してから結構簡単に犯人が出てくるんですよ。しかも、見直してみると直接犯人が手を下していないんじゃないかと思われるように事件は発生しているので、初めて見たときはミルズ刑事の最後の行動も理解できるなと思って見ていたんですが、見直してみると最初に思ったそういう犯人の思惑・行動ではなく別の考えが浮かんだんですよね。回りくどく言っていますが、ラストの内容を書かないと言っている意味が分かりませんので言いますが、五人目の死体が発見されてから犯人は自首してきて六人目、七人目の遺体の場所を教えるとしてミルズ刑事とサマセット刑事をある場所に犯人が連れて行くのですが、そこにミルズ刑事の奥さんの首が運送便で送られてきて、それに怒ったミルズ刑事が犯人を撃ち殺して七つの殺人が完成すると、こういう風にラストを読み取っていたのですが、本当は違ったのではないかと思ったんですよ。話の途中でわかる事なんですが、ミルズ刑事の奥さんは身ごもっていたんですが、その身ごもっていた事をミルズ刑事は知らず、奥さんの首が送られてきたと知らされたミルズ刑事が、奥さんが妊娠していたと犯人から知らされて、それが引き金になって犯人を撃ち殺すんですが、犯人は奥さんを殺していないのではないか?前の五つの殺人も犯人は直接手を下している訳ではなく、被害者に生きるか死ぬかを選択させて、被害者が死を選択しているように、最初は赤ちゃんの誕生祝いでケーキが送られてきたのではないかと考えていたのですが、妊娠期間から考えて、犯人が奥さんの子供をおろして(中絶させて)そのおろした赤ん坊を送ってきたのではないかと考えたんですよ。どちらにしろ六つ目の殺人はおかしている訳ですが、七つ目の殺人を完成させる為にわざと奥さんを殺したと言ったのではないか?結局本当の殺人を犯したのはミルズ刑事だけなのではないかという考えが浮かんだんです。こういう風に考えると犯人は別段何も罪になるような事はしていなく、人間の感情である怒りに身を任せて殺人を犯した刑事を陥れると言ったら変ですが、殺人の容疑者にして幕を閉じたという話ではなかったかと思ったんです。要するに奥さんの首を送ってきたと思わせた事も犯人の罠だったのではないかという事です。これはあくまでカリメン1号の解釈の仕方なのでいろいろ意見はあると思いますが、そういう見方もあるのではないかというカリメン1号の意見でした。『セブン』を見た事のある方は、そういう意見もふまえてもう一度見てくださると嬉しい限りです。

                                   カリメン1号

さぁ、ゲームの時間だ。Part4

2015年08月15日 13:05

相変わらず更新が遅い!!
外の日差しは焼けるほど照っているというのに、外出もせず部屋に籠りがちななのに、ブログの更新が出来ていないカリメン2号です。
飽きもせずに、インドア生活を満喫はしていますね。
暑い毎日ですが、そんな中で冷房の効いた部屋でするゲームは、最高である!!と確信をもって言えますね。
とまぁ、カリメン2号自身の事は置いといて、今回の紹介も残念ながらテレビゲームの紹介です。
とは言うものテレビゲームというジャンルの中にも、様々なものが存在します。
RPG(ロールプレイング・ゲーム)やシミュレーション、パズルに格闘ゲームやFPS(ファーストパーソン・シューティング)等々、例を挙げればキリがないほど、今のゲームは細分化されているような気がします。
最近では、格闘ゲームのプロプレイヤーまで存在し、全世界のテレビゲーマーから熱狂的な支持を受けてるそうです。
カリメン2号が、過去にブログ記事で紹介したTCG(トレーディングカード・ゲーム)もそうですが、どんな世界にもプロと言われる人々が存在するようですね。
コンピューターが特殊な技術を持った一部の人達の間から、ファミリーコンピューターの台頭によって、一般的になりつつあった時代、幼かったカリメン2号にとって、テレビゲームはとても魅力的なメディアツールでした。
その中でもテレビゲームのプレイヤーとして16連射の高橋名人と言えば、テレビゲーム業界に君臨する神様のような存在で、当時は知られていましたね。(知らない人は検索してみてください。)

それは兎も角として、今回紹介するのはアドベンチャーゲームというジャンルのもので、とりわけノベルゲームとも言われるジャンルのものです。
アドベンチャーと一言で言っても、色々なアドベンチャーが存在しますが、カリメン2号は思考ゲームが割と好きなので、思考を駆使するものが好みです。
過去の記事で紹介した『ゼルダの伝説 神々のトライフォース』なども、謎解きパズル的な要素が多い作品でした。(あれは、アクションアドベンチャーですね。)
アドベンチャーゲームの定義を、少しだけ書いときますと、提示される情報から行動を推理・推考して、その過程で選択することの出来る行動する思考型のゲームで、思考的なパズルのようなものですね。
今でもそうですが、カリメン2号自身が経験してきたノベルゲームと言われるものの多くは、主人公である男性キャラクターが、複数の女性キャラクターから恋愛感情を抱かれるという、恋愛シミュレーションのコンピューターゲームであり、中には18禁のアダルトゲームまで含まれる場合があります。
元々、ミステリー小説が好きだったカリメン2号ですので、文章を中心としたノベルゲームにも興味がありました。
ノベルゲームも詳しかった高校の友人に、何か面白いノベルゲームは無いかと聞いたところ、勧められたゲームが、今回紹介する『KONOHANA:TrueReport』という作品でした。
その当時、まだ高校生であったこともあり、18禁のアダルトゲームには些か抵抗を感じていたので、全年齢対象でストーリー重視のミステリーが良いと、その友人に無茶なリクエストを出していたのを憶えています。
そんな『此花』(このはな)シリーズとは、サクセスより発売されたノベルタイプの学園ミステリーアドベンチャーで、プレイヤーが主人公となり、事件を解決していくゲームなのです。

ストーリーは、とある事件がきっかけで、此花学園という学校に転校してきた主人公の桃井恵(ももい めぐる)は、転校早々に付属寮で、橘美亜子(たちばな みあこ)の着替えを見てしまう。穏やかな学園生活を送ろうとしていた恵なのだが、始業式を前にして学園の教師が殺害されるという事件が起きてしまうのであった。着替えを見てしまったという弱みを美亜子に握られ、恵は自称新聞部の彼女の捜査に、強制的に参加させられることになる。捜査の中で、生徒の間で伝わる「死神伝説」が今回の殺人の予告に使われている事と、殺害された教師には良くない噂があり、彼が顧問をしていた水泳部に、何かあるのではと接触するのであった。そんな捜査の中で、殺人犯の魔の手が二人に迫るのであった。

―死神の伝説は本当だった…? 迫りくる死の恐怖。―

こんな感じノベルゲームになっています。
PS版ではありますが、ゲーム自体の総評としては結構、面白かったように思います。
ノベルゲームなのでイラスト自体は、それほど綺麗なものではないですが、『かまいたちの夜』や『探偵 神宮寺三郎』シリーズのようなリアル指向ではないイラストは、アニメやマンガが好きな人にとっては、そこまでの違和感を感じずにプレイ出来ると思います。
また、一度でも読んだ部分はスキップなどの機能が付いていたことも、ノベルゲームとしては評価が高くなりますね。
総文章が多いわけではないですが、やはりノベルゲームなので読み飛ばしたい部分が出て来ますので、スキップ機能があるのは便利です。
ストーリー構成自体もイラストの印象とは対照的で、本格的なミステリーになっているので、ミステリー好きには及第点だと思います。
エンディングがマルチエンディング仕様になっているので、一通りプレイしたからと言って、必ずしも事件が解決できるものでも無いのが良いですね。
特にカリメン2号が良かったと思えるのは、事件やトリックなどのミステリー部分に矛盾が少なく、読み手(プレイヤー)に対してフェアであるところが高評価です。
カリメン2号が思うにミステリー小説は、読み手に対してフェアで無ければならないと考えています。
だがしかし、特定のイベントや分岐の選択を決定するための情報が少ない事と、本格ミステリー小説が好きの人にとっては、トリックと言われるものが脆弱であるように感じてしまうことが残念に思いました。
また、犯人を追い詰める決定的な物的証拠が少なく、ロジック的に詰めが甘いところも気になる部分ではありましたね。
それを差し引いても、全体的に良くできたゲームだったように思います。

今回の紹介はこんな感じです。
本当ならばお盆の前に、ホラー映画の評論をアップしたかったのですが、誠に申し訳ない。
無理でした…。
とは言いつつも次回は、何とかして映画評論か映画についての記事にしたいと思っています。
頑張りますので、気長に待っていただけると助かります。

カリメン2号