連れ連れなるままに・・・

日々の日常の中で、ふと感じたことを気ままに書いています。 最近観た映画や読んだ小説などの感想、趣味の紹介なども書いていこうと思います。

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Posted by カリメン1号・2号・3号 on

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映画評論38

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8月も終わりに近づき、穏やかな秋が来るのかと思いきや、台風ばかりが日本に来ていますね。
天候の荒れ模様に呼応するように、相も変わらず毎日のように暴風波浪警報が鳴り響いている心理状態のカリメン2号です。
とは言うものの最近になって、少しだけ心理状態も安定して来たようで、幾つかの映画を映画館に観に行くだけの元気は出てきたようで、外出す機会も少しだけ増えて来ました。
それは兎も角として、精神的に安定してない時期が長く続いてしまった事もあり、月に一本は映画評論の記事をアップするという目標は早々に破綻してしまいました。
しかしながら、それでも月に一本の映画評論という目標は変更せずに、頑張っていきたいと思っておりますので、温かく見守っていただけると助かります。
そんな訳で、早速ですが今回のブログ記事は映画評論をアップしたいと思っておりますが、月末の評論アップとは何ともギリギリで間に合わせた感は否めないですね。
まぁ、お盆の時期ということもあり、夏のホラー映画特集ということで映画の評論を書いていたのですが、思いのほか時間が掛かってしまいました。
毎度の事ですが、あまり出来の良い映画評論でないことと、ネタバレの情報を含みますので、嫌な方は見ないでいただけると助かります。
映画評論を書いといて言うことでは無いのですが、特に今回の映画評論で取り上げた『ヴィジット』という作品を、純粋に楽しみたいと思ってる方は、ブログ記事を読まないことをお勧めいたします。

『ヴィジット』
 2015年度の映画作品の多くには、「狂気」というテーマが内在していたように思う。「狂気」と言っても、誰の目から見ても分かるようなものから、静寂の中に潜むような狂気も存在する。そんな「狂気」というテーマを見事に「恐怖」に作り替えた作品が『ヴィジット』であった。監督を務めたのは『シックス・センス』や『サイン』などを手掛けたM・ナイト・シャマラン監督である。監督の作品は近年では、賛否両論を巻き起こすことが多く、ホラー作品としては鳴りを潜めていました。
 ストーリーは、絶縁状態であった祖父母に会いにやって来た姉のベッカと弟のタイラーは、祖父母の暮らす田舎町で1週間を過ごすことになっていた。祖父母と母親との絶縁状態を終わらせるべく、ベッカは祖父母のドキュメンタリー映画を撮ろうとするのだが、時折見せる祖父母の異様な雰囲気に戸惑う姉弟であった。夜になると祖母が家中を徘徊していたり、祖父の様子も決して普通ではないことに気付くのであった。不気味さを感じながらも週末を迎え、ウェブカメラで母に久しぶりの祖父母の姿を見せるのだが、それが別人であることを知ってしまうのであった。滞在日の最後の夜にゲームをしている最中、姉のベッカは隙を見て地下室で本当の祖父母の死体を見つけてしまう。その事に気が付いた祖父に成り代わった老父によって、暗い部屋に祖母に成り代わった老婆と閉じ込められてしまうのであった。そこで襲ってきた老婆を鏡の破片で刺して、タイラーのところに急ぐ姉のベッカ。その一方でタイラーは老父の前で、恐怖に怯えて一歩も動けずに、立ち尽くしていたのだが、姉のベッカが祖父に襲い掛かかり、タイラーを守ろうとしたことをきっかけに、タイラーも老父にタックルを食らわせて、共に逃げ出すことに成功するのであった。
 どの様な映画作品でも重要な要素を含むのがファーストカットであり、それが作品全体のテーマに準ずる場合が多い。『ヴィジット』もホラー作品ではあるが、映画としての重要な要素は、やはりファーストカットにシーンに集約されていたように感じた。ホラー映画にも関わらず、主役が年端もいかない姉弟ということを考えると、映画作品としてのテーマ性も随分と絞られる。特に今回の『ヴィジット』という作品は、随所に「大人になるということ」というテーマ性が隠されていたように思う。映画としてのファーストカットはインタビューシーンで始まり、その事がこれから始まる映画の映像的なスタイルそのものを表すものであった。そして、ベッカのカメラを通した母親の姿は、大人へと変わろうとする自分自身の象徴として捉えることができる。それがハッキリと分かるのがラストカットのインタビューシーンであり、大人へと成長を遂げた母親の姿という演出となっていたのである。映像としては作品の全体を通して、セルフドキュメンタリーのような一人称での視点を中心としたものになっており、これは観客の視覚を狭めると同時に、登場人物であるベッカとタイラーの視点を共有することで、観客の恐怖を倍増させるような演出になっている。この使い古された演出にもかかわらず、観客を飽きさせないようなストーリー構成は、流石は名監督であるM・ナイト・シャマランと言ったところだろう。特に一人称で撮影している様なカメラワークにもかかわらず、決してプロっぽくないような映像は、観客として何の違和感も無く観ることが出来たように思う。そしてまた、恐怖のシーンと穏やかなシーンとの緩急を付けた映像の上手さや、自然の背景に赤い字のテロップを載せるなどの静かな狂気の演出などが、さらに観客の恐怖を煽るようになっていた。
 近年では賛否両論の多かったシャマラン監督の『ヴィジット』という作品は、過去に手掛けた名作のような、確かなメッセージ性が伺い知れたように思う。それは「大人になるということ」ではないだろうか。映画に登場する小物や演出の多くのシーンで、民俗学に見られるような通過儀礼が使われていたように感じる。昔話に登場する魔女を殺すという行為は、一種の通過儀礼の象徴として描かれていることが多い。つまり真実を映し出す鏡という物で、母親の象徴である魔女のような老婆を殺すという行為は、ベッカ自身のアイデンティティに確立に他ならないのである。それは映画のファーストシーンからラストシーンでの母親の変化や祖母の家に在った大きなオーブンの存在、そして老婆と共に閉じ込められた部屋での鏡の演出などからも明らかであるように思う。また、映像としても、カメラを通した祖父母の姿は大人の象徴であり、子供たちからの見た彼らとは、まさに得体の知れない大人の世界そのものであったように感じる。姉弟が経験した一週間という旅行は、姉弟にとっての大人への通過儀礼に他ならず、まさに現代版のおとぎ話であるヘンゼルとグレーテルの様相を呈しているように感じた。

今回の映画評論は、こんな感じです。
久しぶりに書き上げた映画評論ということもあり、あまり出来が良くない…。
映画評論としての演出意図や表現の考察、そして特に古典寓話に対する民俗学的な考察部分が、全くと言って良いほど書きたいことが書けていないように思います。
何とか月に一本は映画評論をアップすることは出来ましたが、急いで書き上げたせいなのか、改めて映画作品を観なおすと、もう一つの隠されているテーマが浮かび上がってくるような気がしました。
それは「高齢化する社会の歪み」みたいなもので、演じていた役柄の老父と老婆から読み取ることが出来るのもでした。
今や核家族が当たり前の時代となり、人間同士の繋がりみたいなものが希薄になってきていますから、彼らの姿は今現代の姥捨て山に近いのではないかと思い、その事に改めて恐怖を感じるカリメン2号でした。
とは言え今月の目標はクリアということで、次回のブログ記事は決まっていませんが、何か紹介記事でも書ければ良いかなと考えています。
また秋という季節も、イベント事が多くなる時期ですので、近いうちに何かのイベントなどに参加する予定を立てています。
なので、その事もブログ記事にしたいと思っていますので、気長に待っていていただけると嬉しいです。

カリメン2号

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映画評論37

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5月も終わりに近づき初夏の香りが漂ってくる毎日ですが、相変わらずテンションは低空飛行のままのカリメン2号です。
やっとの思いで復活したのですが、またしてもブログ更新が遅くなってしまいました。
今月はゴールデンウィークなどもあり、何かと話題には困らないはずなのですが、特に忙しかったという訳でも無いのに、色々としなければならないことが重なり、思いのほか元気は無いですね。
何よりも問題なのが、映画を観る元気が出ないということが、今の自分にとっての課題でしょうか…。
それは兎も角として、何としても月に一つぐらいは映画評論の記事をアップしようと思っていますので、今回も間に合うように何とか頑張りました…。
毎度のことながら評論の出来は良くないですし、ネタバレなのどもありますので、嫌な方は見ないでいただけると助かります。

『キサラギ』
 近年のムーブメントの一つとして、「アイドル」ということが注目を集めている。社会現象にまでなったAKB48のアイドルブームやアニメの『ラブライブ』、NHK朝の連続ドラマでは『あまちゃん』などが有名なところだろうか。今回の映画評論はアイドルが作品の中心的な役割を果たしている作品である。『キサラギ』という映画作品は原案・脚本を担当しているのが『ALWAYS 三丁目の夕日』という作品で、日本アカデミー賞を受賞した古沢良太である。その緻密で巧妙なストーリラインの脚本によって、2007年度の第50回ブルーリボン賞や第31回日本アカデミー賞の優秀作品賞を、この作品によって獲得した。
 ストーリーは、とあるビルの屋上にあるペントハウスで、マイナーなアイドルの如月ミキのファンサイトで知り合った五人のメンバーが集まった。サイト運営者の家元、オダ・ユージ、スネーク、いちご娘、安男という面子のメンバーは一年前に、焼身自殺してしまった如月ミキを悼むために集まったのであった。和やかなムードの追悼会であったのだが、オダ・ユージが言った「彼女は自殺ではなく、誰かに殺されたのだ。」という言葉で、追悼会の状況は一変する。ミキの自殺を不審に感じたオダ・ユージは独自に事件の調査をしており、そこで彼女がストーカー被害にあっていたと主張しだすのであった。だがしかし、家元がその事実を完全否定する。何故なら実は家元は警察関係者であり、彼自身もミキの自殺の件を調べていたのだ。そんな中、急に帰ろうとするいちご娘だったのだが、実は彼がストーカー行為をしていた張本人であり、部屋に侵入していた事が明るみになるのであった。新たな事実が判明するも、いちご娘には確固たるアリバイがあり、殺人を犯した犯人では無かった。いちご娘の新たな証言により、スネークがミキの知り合いで、とても親しい人物であることが明らかになる。そんなスネークからも新たな事実をメンバーは聞かされることになる。それはミキには結婚を約束した幼馴染がいるという事と、その事を知っていたオダ・ユージの正体が、実はミキの元マネージャーであることが判明するのであった。そんな目まぐるしく変化する状況の中、腐ったアップルパイを食べてトイレに行っていた安男が戻ってくる。そこで、またしても衝撃の事実が判明したのだ。それはミキの婚約を誓った幼馴染が安男である事、そしてミキがヘアヌード写真集を出そうとしていた事である。その理由が幼い頃に別れた父親を捜すためだったのだ。その話を聞いていたいちご娘は、自分がミキの父親であることを明らかにする。メンバーたちによって明かされる、事件の真相に繋がる色々な事実が、バラバラだった彼らを繋いでいく。そして、遂には如月ミキの自殺の真実に辿り着くのであった。
 映画において重要なシーンの一つが、導入部分であるファーストカットであることは、再三に亘って書いてきたが、『キサラギ』という映画に置いても、その事は変わらない。特に映画の根幹を成すテーマとして「自分を見つめ直す」であるように感じる。それはアイドルという偶像を通し、自分を見つめ直すための出来事が物語として描かれている。特にファーストカットでのシーンは、それを端的に表していたように思う。真っ暗な暗闇の中から、エレベーターで浮かび上がってくる家元役の小栗旬の姿は、暗闇で周りが見えていない自分自身のキャラクターそのものであり、テラスにある一室は、まさに殻に閉じこもる自分の心そのものを表現していた。それは物語の中心となるメンバーの登場シーンや服装からも明らかで、役柄の振る舞いや言動に至るまで、全員が自分自身に何らかの想いを抱えている人物として表現されている。
 映画作品として目立った部分と言えば、やはり豪華な俳優陣による秀逸な演技と、一室という限られた空間でのカメラワークである。一つの部屋の中で映画作品が進行していくので、激しい動きの演技は少ないためか映像として緩急か付けにくい。しかしながら、それを補うような緊迫した空気の演技と、映像の中に複数の人物を入れることによって、一室という空間の圧迫感を演出していたように思う。またライティングによる光の演出が、登場人物たちの心情を表現しているのが目立っていたようにも感じた。追悼会で集まった部屋の一室が、登場人物たちの心情そのものとして描かれているのは、そのライティングからも読み取ることが出来る。和やかな追悼会を一変させたオダ・ユージの発言と共に、窓から差し込んでいた光は無くなり、外は雨となることで室内は暗い電球のみになる。まさに彼らの心に暗い影を落としこんだような演出であった。
 作品のテーマとして自分を見つめ直すということが、ストーリー構成においても表現されていたように思う。アイドルの如月ミキがラストシーンまで、彼女の顔を映し出されないことは、アイドルとしての偶像そのものを表している。その偶像は、登場人物たちを映し出す鏡のような役目を果たしていたのだ。作品を通して顔を見せないアイドルという存在が、ラストシーンでその素顔を見せる演出は、まさに彼ら自身が自分を見つめ直すことに成功した証なのだろう。ただ作品テーマとしては仕方ないのだと思うのだが、最後まで如月ミキというアイドルの素顔を映し出さない方が、作品全体としては良かったのではないかと思う。素顔をさらけ出すことによって、ラストシーンがコメディタッチになってしまった事が、シリアスで緻密な構成の映画作品の良い印象を、軽くしてしまっていたように感じられてしまった。如月ミキの素顔を映像として映し出さなくても、暗い部屋の中でプラネタリウムを観るシーンよって、暗闇の中でなら光り輝く星を見つけることが出来るのだということは、観客に伝わっていたように思う。

今回の評論記事は、こんな感じです。
本当に出来が悪い映画評論ですね…。
書きたいと思っていたことの半分も書ききれていないのが現状です。
とは言うものの、映画作品としては面白く、何よりも脚本ストーリー構成が秀逸な作品だったと思います。
次回のブログ記事は決まっていませんが、早めに2015年度の映画ベスト3を発表したいと思っています。
ただ、今年は本当に映画が見れていないので、総評を書けるまでは記事としてアップしないつもりです。
楽しみに待っていただけている方がいるのであれば、本当に申し訳ないです。

カリメン2号

映画評論36

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何とか間に合った…。
寒い日々のせいで、テンションが下がりっぱなしのため、ため息しか出てこないカリメン2号です。
月一で映画評論をアップするという一年の目標を、早くも達成できないのではないかと思っていましたが、何とか間に合わせました。
相変わらず、年末から元気の出ない生活を送っているのですが、それでも映画には目を通すようにしています。
と言いう訳で長らくお待たせいたしました、今月の映画評論の記事をアップしたいと思います。(とは言うものの、今月って今日で終わりなんですが…。)
毎回のごとく、ネタバレなどの情報もありますので、それが嫌な方は見ないでいただけると助かります。

『アザーズ』
 評価の高いホラー映画には、娯楽としての恐怖のほかに、根源的な恐怖やメッセージ性の強いテーマが選ばれる。『アザーズ』もその一つと言えるだろう。監督を務めたのは『海を飛ぶ夢』で、2005年度のアカデミー賞外国語映画賞を受賞したアレハンドロ・アメナーバル監督で、この『アザーズ』という作品が、ハリウッド進出の映画作品となった。
 ストーリーは、イギリスの霧深い孤島の屋敷に引っ越してきたグレースは、戦地に赴いた夫の帰りを、子供たちと一緒に待っていた。そんな日々の中で、急に居なくなってしまった家政婦を、新たに雇うことにしたグレースは、過去に屋敷で働いていた家政婦たちを雇うのであった。彼女の子供たちであるアンとニコラスには事情あり、彼らは日の光アレルギーという特殊な体質であったのだ。穏やかで静かな生活を望んでいたグレースと子供たちであったが、屋敷では色々と奇妙なことが起こり始めるのであった。静かな生活の中に違う者の存在を感じ始めるグレースは、屋敷について調べ始めるのだが、遂に耐えられなくなり神父を呼びに街へと向かった。街に向かう途中、霧に包まれた森の中で、戦争に行っていた夫のチャールズと再開する。夫と屋敷に戻り再開を喜んだのも束の間、再び戦地へと夫は姿を消してしまうのであった。そんな中で雇い入れた家政婦たちは、何やら屋敷の秘密を知っているようで、それに感づいたグレースは彼らを屋敷から追い出した。だがしかし、彼らが実は死人だということを、知ってしまったグレースと子供たちは、彼らに追われるように屋敷に立て籠もるのであった。そして逃げ込んだ屋敷の中で、グレースと子供たちは、実は自分たち自身も死んでしまった人間である、という事実を知ってしまうのであった。
 どの様な映画作品でも、映画の顔となるファーストカットは重要であり、この作品に置いても、その重要性は少しも変ってはいない。特にファーストシーンの旧約聖書の神話は、この『アザーズ』にとって根幹を成す要素である。それと蝋燭の灯りによって演出されていたことも作品の重要な要素を表していた。それは作品のテーマにも共通する「知るということ」にも繋がっていく。作品の中にはキリスト教の聖書にまつわる部分が、多く引用されている。それは知識が光の象徴として、映画の中では描かれているからである。それを暗示するかのように聖書の中には「神は言われた「光あれ」こうして光があった」という文言が存在する。これは日本語で言うところの「光明」にあたり、知るということ自体が光(灯り)の象徴となっている証に他ならない。また、ファーストカットに置いて、グレースが悲鳴によって起床するシーンは、この映画のラストシーンへの布石となっている。
 撮影技術に関しても秀逸であり、美しい映像とライティングは、作品の印象付けるだけの力を持っていたように思う。特にライティングに関しては、映画を観ていて違和感なく観ることが出来たのは、とても良かったように感じる。ホラー映画などの暗闇を使う作品は、暗い部分の演出や蝋燭の灯りなどによって、役者の顔が潰れてしまうことも少なくない。しかし、その様な事もなく、自然に感じられるライティングの映画作品は、本当に珍しかった。また恐怖を生み出す演出も流石と言うべきだろう。特に『アザーズ』で注目して欲しいと思ったのはカメラワークである。見えないものが存在している演出には、足音や物の移動になどによる、古典的な恐怖の演出ではあったが、それを感じさせないような緊張感を、カメラワークと俳優の演技で表現していたように思う。カメラが人間の視界であるかのように、カメラの外で物が移動して、その事に緊張感を高めていく、グレース役であるニコール・キットマンの演技が秀逸であった。
 過去の評論にも述べたように、良いホラー映画とは、人間の内面的な部分を描いていることが多いように思う。『アザーズ』という作品も、この条件に当てはまる部分が多く、特にグレースの心理面は、この屋敷そのものと言っても過言ではない作りになっている。カーテンの閉められた窓や鍵の掛けられたドアは、グレースの頑なな心を表現しており、その事が子供たちを束縛し、窮屈にしている印象を与えていた。それを裏付けるように、霧に包まれた屋敷からは何処にも行けず、屋敷の門になっている格子は、まさに監獄の鉄格子のような印象を与える演出になっていた。何よりも映画の物語が、屋敷内で完結しているのも、屋敷自体がグレースの深層心理を表していることに他ならないのである。
 『アザーズ』という作品は、洋画のホラー作品として、高く評価されている作品であるように思う。多くのホラー映画では、グロテスクなシーンなどが含まれ、未知の怪物などに追われるという作品が多い。そんな中でも、徹底的に恐怖の対象である存在を、ラストシーンまで映像に登場させず、真相を知ってしまった後の切なさは、他の洋画ホラー作品にはない要素であった。それはまさに、ジャパニーズホラーのような心理的な恐怖と、何処か切ない親子の在り方は、静かな感動を呼ぶエンディングになっていたように思う。

今回の映画評論は、こんな感じです。
いや~、評論の出来が悪い!!
流石に急ピッチで書き上げただけのことはあり、まとまりの無い文章になってしまいました。
次回の映画評論は、もう少し余裕を持って書き上げたいと思います。(元気があればですが…。
それにしても、ブログメンバーが増えたのにもかかわらず、後方支援が無いままブログを続ける実状は、正直に言いますとしんどいですね。
まぁ、二人とも忙しいので仕方が無いのですが。
それは兎も角として、次回のブログ内容は何か紹介記事を書きたいと思っています。
出来るのであれば小説が良いなと思っています。

映画評論35

Posted by カリメン1号・2号・3号 on   0 comments   0 trackback

今回は早かったー!!
と会心の叫び声を上げながら、ブログ記事をアップしてるカリメン2号です。
部屋の中で叫ぶって、どんな奇人だよというツッコミは置いといて、これで今月はのんびりと出来ますね。
とは言うものの、秋になってからはイベント(個人的な用事)が多く、それなりに充実した生活を送ってますね。
まぁ、何時までこの元気な気力が続くかは、分かりませんが…。
そんな訳で、今回のブログ記事は映画評論ですが、残念ながら新作映画の評論ではありません。
その辺はご容赦ください。
一応ですが、ネタバレ情報も含みますので、嫌な方は見ないで頂けると助かります。

『レイダース 失われた《聖櫃》』
 冒険映画の代名詞として、世界中で人気のスティーブン・スピルバーグ監督作品である『レイダース 失われた《聖櫃》』は、後に続く「インディ・ジョーンズ」シリーズの記念すべき1作目である。1981年に日本で公開されたアドベンチャー映画であり、スピルバーグ監督の盟友でもあるジョージ・ルーカスが、製作総指揮をした。冒険を中心としたアドベンチャー映画であるにも関わらず、世界的にも高い評価を受けており、第54回アカデミー賞の編集賞や音響賞などを受賞した。
 ストーリーは、大学にて教鞭を振るう傍ら、世界中の宝物を探し出すトレジャーハンターをしているインディアナ(インディ)・ジョーンズ教授。そんなある日のこと、陸軍の諜報部よりナチス・ドイツが、アークのあるとされる遺跡を発見し、その発掘に着手したことを聞かされる。インディは何としてもナチス・ドイツより先に、アークを手に入れるように諜報部より依頼を受けるのであった。アーク研究の第一人者である、レイヴンウッドの持っている杖の飾りが、アークの位置を指し示す。そのために杖の飾りを譲ってもらいに、インディはヒマラヤ山脈の奥地を訪れる。そこで、かつての恋人であったレイヴンウッドの娘であるマリオンと再開する。そんな中、ナチス・ドイツの追手との銃撃戦を掻い潜り、アークの位置を指し示すための地図があるエジプトへと向かうのであった。インディの友人である発掘の指揮をしていたサラーの協力を経て、インディは遂にアークを発見するのだが、ナチス・ドイツに協力していたライバルの考古学者であるベロックに、アークと奪われてしまうのであった。インディは空港に向かっているアークを積んだトラックを襲撃し、何とかアークを取り戻すのであったが、船での輸送中にまたもアークを奪われてしまうのであった。そしてナチス・ドイツにマリオンをもさらわれてしまったインディは、彼女を助けるために再び敵の真っただ中に飛び込んで行く。しかしながら、インディ自身も捕まってしまい、アークの蓋を開く儀式の場所で、縛り付けになる。だがしかし、開いたアークの中から飛び出してきた、精霊や電撃に依って、インディとマリオン以外の人間は死んでしまうのであった。目を瞑っていた二人だけが生き残り、インディは何とかアークを取り戻すことが出来たのであった。
 映画のファーストカットは重要で、多く場合が映画自体の根幹を成す情報が含まれている。今回の『レイダース 失われた《聖櫃》』においても同様である。ファーストシーンおいて、主人公であるインディの顔が、直ぐにスクリーンに映されることは無い。これはインディアナ・ジョーンズというキャラクターが、どの様なキャラクターであるのかというのを、徐々に見せるためである。また映画としてのテーマも、ハッキリと描きこまれており、「人間の欲深さ」が映像によって表現されていた。その事を決定づけていたのが、ファーストシーンでの裏切り者の案内役であり、対比の存在として黄金の像を守る部族の人々であろう。また重要な要素としては、インディが意外にも詰めが甘いということを印象付けていたのではないだろうか。これは作品全体を通して言えることなのだが、それによって何度も、財宝のアークや相棒のマリオンを奪われるなどの、ピンチを招いていたことに繋がっている。だがしかし、その事によってインディ・ジョーズというキャラクターが、ただ単に欲にまみれたトレジャーハンターでは無いのだと、観客に印象付けていたように思う。映画の技術的な面としては、ライティングの技術やカメラワークの演出なども、流石に上手いと言えるだろう。洞窟内での表情を活かすライティングや光を使った仕掛けの演出、そして影の存在による人物の登場シーンなど、明らかに意識的に作られているように感じた。また、カメラワークも秀逸であることは言うまでもない。特殊効果の映像が多く使われているので、それほど情緒的なロング映像は存在していなかったのだか、軽妙なカメラワークとテンポの良いカット編集によって、観客を飽きさせることなく、映画の冒険譚に引き込んでいたように感じた。
 作品のテーマとして、アドベンチャー映画というジャンルでは珍しく、「人間の欲深さ」ということではないだろうか。映像のファーストカットでも、黄金の像に目が眩み、私欲を出した人間たちは次々と死んでいくのである。またラストシーンでも、神の力を手にしようとしたナチス・ドイツやベロックは、神の怒りに触れたような壮絶な最後を迎える。それとは対照的にインディとマリオンだけは、その領域に踏み込むことをせず、生き残ることが出来るのであった。これはアークという存在そのものが、神であるか神聖なモノであるということに他ならない。人間が神の領域に踏み込むことは禁忌であり、それが「人間の欲深さ」であるということを暗示しているのではないどうか。

今回の映画評論は、こんな感じです。
文才が無いに加えて、今回はストーリーの概要部分が、かなりの量になってしまった…。
本当に申し訳ないです。
流石は、世界の巨匠であるスティーブン・スピルバーグ監督の作品だけはありますね。
評論を書いていても、なかなか奥深く、考えさせられる部分や納得の行かない部分が、多くなってしまいました。
それでもエンターテイメント性を失わない作品は、映画史の中でも本当に少ないです。
情報には間違いはないと思いますが、訂正などがありましたら、コメント頂けると嬉しいです。
それと一応ですが、映画評論のリクエストも受け付けていますので。

カリメン2号

映画評論34

Posted by カリメン1号・2号・3号 on   0 comments   0 trackback

十五夜の月夜に、日本の風情を感じるカリメン2号です。
とは言ってもカリメン2号は、花より団子というタイプなので、月見酒や十五夜の団子が主な目当てなんですが…。(何とも意地汚い)
今回のブログ記事は、またまた間に合った映画評論です。
毎回のことながら、本当に月末にアップする(色々な意味で)ギリギリの映画評論ですね。
と言うことで、今月分の映画評論をアップしたいと思います。
一応ですがネタバレなどの情報も含みますので、嫌な方は見ないでいただけると助かります。

『レザボア・ドッグス』
 世界の巨匠であるクエンティン・タランティーノ監督のデビュー作であり、その作品の面白さは世界に衝撃を与えた作品であった。自主製作で作られた、この『レザボア・ドッグス』であったのだが、あまりにも良く出来た作品に、ハリウッドでのリメイクが実現したのである。その緻密で丹念に作りこまれた人間描写は、作品に厚みを生み出し、映像の時間軸を巧みに使ったストーリー構成は、以後のタランティーノ作品に通じるものがある。
 ストーリーは、互いの素性すら知らない者たちが、宝石強盗をしようと集まり、計画を実行するのだが、見事に計画は失敗したのであった。彼らは隠れ家としている倉庫へと逃げ帰ってくるのであったが、そこで計画の参加者の中に警察の犬が混じっていると疑い始める。警察に撃たれた仲間のオレンジを寝かせ、ホワイトとピンクが言い争いを始めるが、そこに逃走する際、一人の警察官を捕まえたブラウンが倉庫にやってくるのであった。3人は警察官から、自分たちの中に紛れ込んだ警察の犬を聞き出そうとするが、ホワイトとピンクが倉庫を出た隙に、ブラウンが警察官を焼き殺そうとする。そんなブラウンを、オレンジが撃ち殺すのであった。実はオレンジは潜入捜査官で、計画を立案した主犯のジョーを追っているのであった。ホワイトたちが倉庫内に戻ってくると、ブラウンが殺されていることに兄弟分のエディが激高して、警察官を撃ち殺す。そこにジョーがやって来てオレンジが警察の犬だと告げるのであった。しかし、逃走の最中に助けられたホワイトはオレンジを庇い、互いが銃を向けあうことになる。銃での撃ち合いに、何とか生き残ったホワイトであったが、倉庫を警察が取り囲む。そして最後にオレンジが警察の犬であるという告白をオレンジ自身から聞き、彼を殺す決断をするのであった。
 映画の中で重要なのは、やはりファーストカットであろう。この『レザボア・ドッグス』のファーストカットの映像がとても印象的な作品であった。素性の知らない、ならず者たちの相関関係を、映像が横に流れるドリーショットと音楽の歌詞に出てくる女の解釈によって表現している。特にファーストカットで重要なのは食後のチップの支払いで、彼らの中で唯一、チップを払おうとしなかったのが、最後まで生き延びることの出来たピンクであったことだ。この事はピンクというキャラクターが、作品の中でただ一人、作品を通して変わることのないプライドを持っていたことに他ならない。その事を裏付けるように主人公のホワイトをはじめ、作中で何らかの心情的な変化をしていた者は、必ず死んでいるのである。映像の画面構成もキャラクターたちを中心として考えられており、全身の映るフルサイズとバストサイズが目立っていたように感じる。これは互い素性を知らない中で、キャラクターたちの距離感と、立たされている状況の位置関係に他ならないのではないだろうか。ストーリーとしても、倉庫の中というワンシチュエーションのドラマであるが故に、停滞した印象が多くなる映像を、奥行きのあるカメラアングルとカメラワークによってスピード感と緊迫感を出していた。その事を観客に明確に意識させることで、ストーリー自体にも奥行きを見出していたように思う。また、瀕死のオレンジが倉庫でブラウンを射殺するシーンや、ラストカットであるホワイトが抱えたオレンジの頭を撃つシーンも、絶妙なカメラワークによって「見せない」という演出をしていた。これが作品にアクセントを与えて、ワンシチュエーションのドラマであっても、観客が飽きることなく観ることの出来た要因であった。
 今回の映画作品の根底に流れているテーマは「変らない信念」ではないだろうかと思う。物語の中では、当初の計画と違うというようなことが、セリフの中に多く登場していた。これは、映画のテーマの象徴のように感じることが出来た。宝石強盗の段取りにしても、潜入捜査をしていたオレンジが、一般人を撃ち殺すことにしても、当事者にとっては全くの計算外であった。そんな中で自分の考えを変えずにいたのが、ピンクというキャラクターである。だからこそ彼だけが戦利品である宝石を持って逃げ、生きのびることが出来たのだと思う。そして編集においても、そのテーマ性は変わらず、登場人物の過去や強盗に参加する経緯が、色々なインサートとして使用されていたのだが、今回のテーマのである「変らない信念」ということの反面教師という意味合いで使われていたように感じた。映画の中では、彼らが立たされている立場や、変わっていくそれぞれの想いに繋がっているのではないだろうか。

今回の映画評論は、こんな感じです。
相変わらずのヒドイ出来栄え…。
とは言うものの、タランティーノ監督の評論は初めてでしたので、なかなか難しかったです。
特にタランティーノ監督の編集は、映画作品の構成そのものに関わってくるので、どの様に伝えれば良いかと悩みますね。
また、どうしても名監督と言われる監督たちの作品は、分析すればするほど、色々な観かたが出来てしまうので…。
だからカリメン2号は、評論するのを避けてしまう部分もありますね。
次回の記事は決まってませんが、早めに映画評論をアップできればと思っています。
映画評論のリクエストや情報の間違いがありましたら、コメントいただけると嬉しいです。

カリメン2号

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